落ちこぼれ太公とカタリーナ  マジョルカ恋物語2 Majorca

 


 ショパンがジョルジュ・サンドと滞在したマジョルカ島ヴァルデモッサのカルテジアン修道院の庭園に、ぽっちゃりとした顔つきの髭の人物の胸像がある。モデルは19世紀後半から20世紀初めにかけて生きたハプスブルグ大公ルードヴィヒ・サルバトール(以下ルードヴィヒ)という人だ。ルードヴィヒは、トスカニー公国レオポルド2世を父に持ち、本来なら絢爛豪華なウィーン宮廷で一生を送るはずだったのだが、宮廷生活から逃げ出しマジョルカ島に居ついてしまった。

ソン・マロイグ(Son Marroig)からの眺め

 ヴァルデモッサから7−8キロほど離れた海沿いの高台にソン・マロイグと呼ばれるルードヴィヒの館がある。田舎の地主屋敷のような石造りの館の中は、テラコッタやパステル調の壁の色が木の調度品と心地よく調和して居心地が良い。地中海を一望できる書斎には、ハプスブルグ家に因む品々や、肖像画がおかれ、本棚の中にはルードヴィヒ筆による数々の学術書が展示されていた。

ソン・マリオグ館の蔵書。ルードヴィヒの著書が数多く展示されている。

 ルードヴィヒは子供の頃から知的好奇心旺盛であったらしく、語学にも長け、王族としては珍しく大学で勉強した。宮廷の許可を得てプラハ大学で法学と哲学を専攻し、ついでに科学と考古学も学んでしまう大の勉強好きだった。もし自分で将来を決める事ができたら、迷わず学者の道を選んだだろうが、若い大公の将来は軍指揮官と決まっていた。

 大学を卒業するとウィーンのエリート士官学校に入学したが、授業には全く熱が入らなかった。挙げ句の果てには落第するし、長距離航海術などという王侯貴族らしからぬ技術習得に熱を上げた。

 19歳になったルードヴィヒは、皇帝フランツ・ヨーゼフよりモラビア総督に任命され、晴れて成人大公の仲間入りをした。悲劇が起きたのはその矢先のことだった。
 ルードヴィヒはこの時18歳の従姉妹マティルダに恋をしていた。そのマティルダが焼死してしまったのだ。マティルダは、こっそりタバコを吸っていたのを父親に見つかりそうになり、タバコをドレスのフリルの下に隠したのだが、そのタバコの火がドレスに引火してしまったのだ。この知らせを聞いたルードヴィヒはショックで倒れ、皇帝から病気療養の許可を得てウィーンを去った。

 1867年、身分を隠しニューエンドルフ伯爵を名乗る20歳のルードヴィヒはマジョルカ島に上陸した。明るい太陽の光に包まれたマジョルカは生まれ育ったトスカニーを思い起こさせた。ルードヴィヒは島の自然の中に入り込み2年間をマジョルカで過ごし、最初の著書となる昆虫の本を執筆した。その後ルードヴィヒは、地中海や大西洋を航海し、再びマジョルカに戻ってきた。ルードヴィヒはこの島に定住しようと心を固めていた。



ソン・マリオグ館

 若い大公は、どこか心の中で宮廷で出世や名声を追う人生は、自分には合わないと感じていたのかもしれない。13歳の時に革命がおき、家族共々命からがらフィレンツェの宮殿から逃げた体験を持つルードヴィヒにとって、宮廷で権力にしがみついて生きる人生など脆く価値のないものに見えたのかもしれない。

 だが、階級社会の慣習が色濃く残っていた時代に、ハプスブルグ家の御曹司が僻地の島に居つくには相当な覚悟が必要だった。近親者は当然大反対し、宮廷では変人扱いされ、嘲笑や雑言の対象になった。「地元の女を囲ってハーレムを作っている」とか「半裸の子供達が屋敷の中を走り回っている」と変な噂が流れ、皇帝フランツ・ヨーゼフは機嫌を悪くしたが、ルードヴィヒには意外な味方がいた。シッシの愛称で知られた美貌の皇妃エリザベートだった。

オーストリア皇妃エリザベート (Public Domain)


 エリザベートは数回、従兄弟ルードヴィヒをマジョルカに訪ねている。エリザベートの目に映ったルードウィッヒは、宮廷の噂話に登場する「堕落者」ではなく、村人達と一緒に汗を流して庭仕事に精を出す日焼けした青年の姿だった。農夫の服を着て村人達に囲まれるルードヴィッヒは幸せそうだった。厳格な儀式や規律に凝り固まったウィーン宮廷に馴染めなかったエリザベートも、機会ある毎にウィーンから逃れては旅に興じていた。エリザベートとルードヴィヒの間には通じるものがあったのだろう。

カタリーナ・ホマル(中央)

 カタリーナ・ホマルという地元の大工の娘がルードヴィヒの人生に登場したのは、ルードヴィヒ38歳の時だった。賢い目をした17歳のカタリーナは文盲だったが、頭の回転が早く、教えると何でもすぐに覚えてしまった。成長するにつれ、美しさを増したカタリーナは、ルードヴィヒの財産管理を任されるようになり、ルードヴィヒの船旅にも同行するようになった。ルードヴィヒは自分の傍でいつの間にか外国語を習得したカタリーナを同行して、ウィーンを訪れた事もあった。「ルードヴィヒが字も読めない身分の低い愛人を連れてきた」などと社交界は大騒ぎになったが、ルードヴィヒは気にもかけなかった。

 19世紀末期のウィーン宮廷では不幸が相次いだ。1889年1月、皇帝フランツ・ヨーゼフと皇妃エリザベートの一人息子、皇太子のルドルフが愛人と心中するという悲劇が起きた。同年、ルードヴィヒの弟ヨハン・サルバトール大公が皇位を返上し、ロンドンのダンサーと結婚した。翌年、船旅に出た新婚夫婦は南アメリカ沖で遭難し行方不明になった。そして、1898年9月には皇妃エリザベートが旅行先ジュネーブでイタリア人アナキストに暗殺された。ハプスブルグ家に次々と降りかかる不幸は、刻々と近づく帝国の悲劇的結末を暗に予言しているかのようだった。

 だが、1899年はルードヴィヒにとって喜ばしい年だった。ルードヴィヒが20年余りかけて書いたバレアリクス列島を題材とした大作が、パリの万国博覧会で金賞を受賞したばかりか、カタリーナが手塩にかけて育てたブドウで生産したワインがパリとシカゴで賞を取った。喜んだルードヴィヒは「聖地の巡礼をしたい」という予てからのカタリーナの夢を叶えるために、カタリーナを伴い聖地エルサレムへの旅に出た。

十字架の左側の建物がカタリーナ・ホマルの家だった。

 バルデモッサに、カタリーナ・ホマルが晩年を過ごした家があった。今でこそ、町の中心地だが、この家の横には石の十字架が立っており、かつてここが集落の終わりであったことを示している。
 エルサレムから帰国したカタリーナはハンセン病を発病した。当時治療法のない病に冒されたカタリーナは、この家でひっそりと35歳の生涯を閉じた。最後までカタリーナの面倒を見たルードヴィヒは、カタリーナの死の翌年1905年に、マジョルカ語で「カタリーナ・ホマル」と題した本を出版し、亡くなった愛人を偲んだ。
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 第1次大戦の勃発とともにマジョルカを立ち去ったルードヴィヒは、大戦最中の1915年にボヘミアで病死した。それから1世紀余りが経った。オーストリア帝国もハプスブルグ家も歴史の彼方に消えて久しいが、名声も出世も求めず、僻地の島に生き、村娘を愛した大公ルードヴィヒ・サルバトールは、マジョルカの「伝説」として今も生き続けている。

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