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バルト海をめぐる駆け引き 第3話 戦争と狂気

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  (イラスト:海上で戦うスウェーデンとデンマークの戦艦) 泥沼化する戦争 スウェーデン領を侵略したフレデリック軍は、町や村を次々と襲った。略奪、暴行、放火を繰り返すフレデリック軍に対抗するエリック軍も、敵の進軍を阻むため町や村を容赦なく焼き払い、軍隊が通った後には焼け跡と死骸だけが残った。激しい戦いは海でも繰り広げられ、激しい砲撃を受けた船が次々と兵士の悲鳴とともに海の底に沈んだ。 リンク: 第1話 イワン雷帝の求婚 第2話 兄と弟 エリック14世 スウェーデンとデンマークのいずれが勝利するか予測もつかない泥沼状態だったが、双方の意地の張り合いが続いた。戦が長引けば資金もかかる。当初十分だと思っていた父グスタフが蓄えた財も忽ち底をついてしまった。勝つためには戦費をどこからか調達しなければならない。だが、エリックは孤立し相談相手もいなかった。こんな時に頼りにしていたヨハンに裏切られ、もう一人の弟はエリックとヨハンの確執に苦に心を病んでしまった。その上、妹たちは揃ってヨハンに味方してエリックとは疎遠になり、恋焦がれているエリザベスからも「兄弟喧嘩などおやめなさい、ヨハンを許してあげなさい」とヨハンを庇護する手紙が送られてきた。重圧はエリックの心を徐々に蝕んだ。勝てないのは誰かが妨害しているからか?自分がいまだに独身で跡継ぎがいないのも、誰かが邪魔をしているからではないか?懐疑心の塊と化したエリックは、現実から逃れようとするかのように酒に溺れていった。 カタジーナ デンマークにはカタジーナの兄、ポーランド王ジグムント・アウグストも加勢していた。エリックはイワン雷帝に特使を送り同盟話をまとめようとした。雷帝はリヴォニアでジグムント・アウグスト相手に泥沼の戦いを繰り広げている。今なら同盟話に乗るはずだとエリックは期待した。だがイワンは同盟話など興味も持たなかった。だが、イワンはどうしても手に入れたいものがあった。それはアボでエリック軍に捕えられたカタジーナ・ヤゲロンカだった。カタジーナを渡す条件なら話に乗っても良い、とイワンは特使に持ちかけた。返事に窮している特使に、この条件を飲まないならロシアはスウェーデンを攻撃するぞ… とイワンは畳みかけた。ロシアに攻撃されたらスウェーデンはひとたまりもない….特使はイワンの要求に頷いた。 指輪の言葉 アボ城で降伏したヨハンとカ...

バルト海をめぐる駆け引き 第1話 イワン雷帝の求婚

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     (写真:グダンスクは、かつてのバルト海最大の貿易港だった) ロシアの挑戦               ロシアという国は昔からバルト海に面していたように思われがちだが、ロシアがバルト海進出を果たしたのは18世紀のことだ。ロシアはそれまでバルト海への出口を求めて、繰り返しバルト海沿岸地を侵略した。雷帝と呼ばれたイワン4世などは25年という年月に渡り、繰り返しリヴォニアと呼ばれたバルト海沿岸地方に攻め入った。そのイワン雷帝の行く手に立ち憚ったのはポーランドだった。ポーランド、ロシア、そして周辺国スウェーデンやデンマークを巻き込んだこの戦は、リヴォニア戦争と呼ばれた。 リヴォニアは、現在のバルト3国の北2カ国ラトヴィアとエストニアにまたがっていた。中世にドイツ人騎士団が入植し、騎士団領として発展したが、16世紀半ばになると騎士団国は衰退した。そこを狙ったイワン雷帝は1558年にリヴォニア侵略を開始し、瞬く間に騎士団軍を打ちのめした。存亡の危機に立たされた騎士団はポーランド王ジグムント2世アウグストに保護を求めたため、リヴォニアをめぐりポーランドとモスクワの全面対決の図式が出来上がったのだ。 リヴォニアの古地図 この時代のポーランド王国は「黄金時代」と言われた繁栄期にあった。ポーランドを治めるヤゲロー王朝は、元はと言えばリトアニアの出身で、ポーランド王ジグムント2世アウグストはポーランド王とリトアニア大公を兼ねており、その支配地は現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシア西部にまで及ぶ広大なものだった。王国の内陸にはポーランド経済を支える肥沃な農地が広がり、各地で収穫された大量の穀物がヴィスワ川を下りバルト海最大の交易都市グダンスクに運び込まれた。グダンスクにはハンザ同盟やオランダの商船が行き来し、積み込まれた穀物は西欧各地で取引されていた。 一方、長らくモンゴル帝国の支配下にあったロシアは、ヨーロッパと文化・歴史・宗教を共有することがなく、ヨーロッパとは相異なる異質な国だった。モスクワ公国の君主イワン4世は、周辺の小公国を次々と制し、歴史上初「ロシア皇帝」を名乗った人物だった。だが、ロシアが強大な帝国にのしあがるのはまだ先のことで、イワン雷帝時代のロシア...

コペルニクスの生涯を探る6 名声と挫折 - Frombork, POLAND

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  遂に地動説の証明を成し遂げたコペルニクス。だが、聖書に相反する地動説を世に出すべきか悩んだ末に... (写真:天文学者コペルニクスー神との対話、ヤン・マテイコ作 1 ) 騎士団戦争の顛末  ドイツ騎士団との戦はポーランドの勝利に終わった。モスクワ公国を破り勢いに乗るポーランド王国相手に、強気だった騎士団長アルブレヒト・ホーヘンツォルレンも勝ち目がないと悟った。各地で続いていた戦闘は終わり、神聖ローマ皇帝らの仲裁による停戦交渉が始まり、アルブレヒトと騎士団の運命が決まった。  1525年4月10日、クラクフの中央広場でアルブレヒト・ホーへンツォレルンはポーランド王ジグムント1世の前に跪きポーランド王への永遠の忠誠を誓い、何世紀にも渡りポーランドと戦を繰り返したドイツ騎士団は解散した。その後にポーランド王国の属国としてプロイセン公国が誕生し、ジグムント1世はアルブレヒトをプロイセン公に任じた。あれだけポーランドに敵対心を持っていたアルブレヒトだったが、ジグムント1世にとっては血を分けた甥っ子だった。アルブレヒトはこうしてポーランド王国のエリートの仲間入りをした。 プロイセンの忠誠、ヤン・マテイコ作  騎士団との戦いが終わった後、コペルニクスはオルシュティン城を後にフロムボルクに戻った。大枚を叩いて年賦で買った立派な家は戦争で焼けてしまい、当面は他の聖職者らと共に修道院で仮住まいをせざるを得なかった。やがて焼け跡に質素な家を立て、後年De revolutionibus(回転について) 2 として知られるようになる本の原稿をまとめ始めた。  コペルニクスはすでに初めて天文学に触れた学生時代に太陽が地球の周りを回っているという「常識」は誤っていると気がついていた。天界を回転しているのは太陽ではなく地球だ、という自身の仮説をいつか証明したい!と若いコペルニクスは意気込んだ。だが、この仮説を数学的根拠に基づき証明するには十分な証拠が必要だ。そのために教会に仕えた後も(籠城中も)、天体観測を欠かさず続けたのだ。古代から伝わるシンプルな天体観測機器を使って日食や月食、木星食などを肉眼で観測し、自説を証明するために十分な観測結果を蓄積する為に何十年という歳月がかかった。  「転回について」をまとめ始めたこの頃、コペルニクスは学者として充実した日々を送っていた。他の天文学者が...

コペルニクスの生涯を探る5 盗賊と戦争 - Olsztyn, POLAND

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  (写真:16世紀初めのポーランド騎士の甲冑) ヴァルミア盗賊団  コペルニクスが教皇から依頼された暦改革プロジェクトに没頭している間、ヴァルミア司教区各地では盗賊の被害が相次いだ。人気のない街道で旅の商人が襲われ現金や商品が奪われた。盗賊に抵抗して怪我をしたり、命を落とす者もいた。しかも、盗賊の標的になったのは金目のものを持っている商人ばかりではなかった。フロムボルクとメルザク (1) という町をつなぐ街道で聖職者2名が盗賊に誘拐される事件もあった。幸い2人は身代金と引き換えに解放されたが、教会に仕える尊い聖職者までが強盗に狙われるなど世も末だと人々は震え上がった。  ヴァルミアの町の役人が盗賊を追ってゆくと、奇妙な事に、盗賊は決まって騎士団国に逃げ込んだ。盗賊をひっ捕まえて刑に処そうとすると、今度は、騎士団国の住民だという理由で騎士団長が釈放するよう要求し、刑を執行することもままならなかった。  盗賊の悪事はエスカレートし、1517年の夏頃には馬に乗った大強盗団が大っぴらに町や村を襲撃するようになった。ある時は百騎の馬に乗った大強盗団がやってきて50箇所もの小麦倉庫や馬屋に放火、道中の村や貴族の館にも火を放ち、後には無惨な焼け野原が残った。 写真:ドイツ騎士団長アルブレヒト・ホーレンツォレルン  盗賊を背後で操っていたのは、ドイツ騎士団長アルブレヒト・ホーレンツォレルン だった。アルブレヒトは、ブランデンブルグ公を父にポーランド王の姉を母に持つ高貴な生まれで、1511年に20歳の若さで騎士団長に就任した。ポーランド王家の血縁だったにもかかわらず、ポーランドに敵対心を燃やし、13年戦争で騎士団が失った領土を取り返すことを夢見ていた。  当時ポーランドは、モスクワ公国と戦争中で、国王ジグムント1世にはヴァルミアに兵力を回すだけの余裕がなかった。しかも騎士団に一貫して毅然とした態度をとっていたヴァセンローデ司教は1512年に亡くなり、新たに司教の座についたファビアン・ルジャンスキ は騎士団の顔色を伺う臆病者だった。司教区を思いっきり揺さぶれば、怖気付いた司教が自分に泣きついてくるに違いないとアルブレヒトは踏んでいた。  アルブレヒトは更にヴァルミアに贋金を流通させ経済を混乱させた。そればかりか、司教区南部の町オルシュティン (2) に支配人として赴任した聖...

女領主暗殺事件  ポーランド王妃ボナ・スフォルツァ暗殺の真相 イタリア バーリ  - Bari

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(photo: 迷路のような細道が続くバリの古い町。 真ん中は 道に迷い、旅行鞄を脇に抱えて宿を探し回る作者)  孤独な金持ち老女を狙った殺人事件。今も昔も人の欲には限りがない。 時は1557年11月。南イタリア、バーリの町は不穏な噂で持ちきりだった。領主が急死し、その死因が何と毒殺だというのだ。しかも「犯人はスペイン王だ」というのだから穏やかではない。  亡くなったのは、ボナ・スフォルツァという 63 歳の女領主だが、ただの小公国の領主ではない。ボナはミラノ公爵を父に、ナポリ王女を母に持つ名門の生まれで、先代ポーランド国王故ジグムント1世の妃だった人物だ。時のポーランド王、ジグムント2世アウグストはボナの実子だ。 (絵画:ポーランド王妃にしてイタリア・バーリ女領主 ボナ・スフォルツァ  Cranach the Younger作)   一方、殺人疑惑が掛けられたスペイン王とは フィリップ2世、 英国女王メアリー・テゥーダーの夫でもある。当時のスペインは「太陽の沈まぬ王国」と言われた大帝国だ。支配地はスペイン、ポルトガル、ナポリ王国、ミラノ大公国ばかりか、オランダ、アメリカやフィリピンなど数多の植民地を持っていた。よりによって何故そんな人物が、元ポーランド王妃の毒殺容疑者と囁かれたのだろうか? フィリップ2世  Titian作  ボナはミラノの近郊のヴィジェヴァーノで生まれ、8 歳の時に未亡人となった母イザベラの領地バーリに移り住んだ。イザベラの宮廷にはルネサンス期の名だたる芸術家や学者が出入りし、バーリは南イタリアの文化の中心地として栄えた。  華やかなバーリ宮廷で育ったボナは、 1518 年1 月千人のお付きを従えポーランドに嫁いで行った。イザベラはその6年後に死去し、ボナはイザベラが所有していたバーリやロッサーノ公国などの財産を 相続した。 そのボナが夫の死後、1556 年5月に38 年間不在にしていた自分の領地バーリに戻って来た。  当時の常識では、一国の王妃が未亡人になったからといって息子が治める王国を出て実家に戻ってくるなど、前代未聞の出来事だった。ボナの息子の愛妻バルバラを嫌っていた事は有名だったので、ボナ里帰りの原因は息子ジグムント2世との不仲だろうと人々は噂した。しかも、ボナがポーランドから夥しい金銀財宝を持ち出して...