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女領主暗殺事件  ポーランド王妃ボナ・スフォルツァ暗殺の真相 イタリア バーリ Bari

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(絵画:ポーランド王妃にしてイタリア・バーリ女領主 ボナ・スフォルツァ  Cranach the Younger作)  孤独な金持ち老女を狙った殺人事件。今も昔も人の欲には限りがない。 時は1557年11月。南イタリア、バーリの町は不穏な噂で持ちきりだった。領主が急死し、その死因が何と毒殺だというのだ。しかも「犯人はスペイン王だ」というのだから穏やかではない。  亡くなったのは、ボナ・スフォルツァという 63 歳の女領主だが、ただの小公国の領主ではない。ボナはミラノ公爵を父に、ナポリ王女を母に持つ名門の生まれで、先代ポーランド国王故ジグムント1世の妃だった人物だ。時のポーランド王、ジグムント2世アウグストはボナの実子だ。 (上のphoto: 迷路のような細道が続くバリの古い町。 中央に映っているのは道に迷い、旅行鞄を脇に抱えて宿を探し回る作者)   一方、殺人疑惑が掛けられたスペイン王とは フィリップ2世、 英国女王メアリー・テゥーダーの夫でもある。当時のスペインは「太陽の沈まぬ王国」と言われた大帝国だ。支配地はスペイン、ポルトガル、ナポリ王国、ミラノ大公国ばかりか、オランダ、アメリカやフィリピンなど数多の植民地を持っていた。よりによって何故そんな人物が、元ポーランド王妃の毒殺容疑者と囁かれたのだろうか? フィリップ2世  Titian作  ボナはミラノの近郊のヴィジェヴァーノで生まれ、8 歳の時に未亡人となった母イザベラの領地バーリに移り住んだ。イザベラの宮廷にはルネサンス期の名だたる芸術家や学者が出入りし、バーリは南イタリアの文化の中心地として栄えた。  華やかなバーリ宮廷で育ったボナは、 1518 年1 月千人のお付きを従えポーランドに嫁いで行った。イザベラはその6年後に死去し、ボナはイザベラが所有していたバーリやロッサーノ公国などの財産を 相続した。 そのボナが夫の死後、1556 年5月に38 年間不在にしていた自分の領地バーリに戻って来た。  当時の常識では、一国の王妃が未亡人になったからといって息子が治める王国を出て実家に戻ってくるなど、前代未聞の出来事だった。ボナの息子の愛妻バルバラを嫌っていた事は有名だったので、ボナ里帰りの原因は息子ジグムント2世との不仲だろうと人々は噂した。しかも、ボナがポーランドから夥しい金銀財

11世紀の町興し イタリア バーリ Bari

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  不景気な町を救うため、11世紀の町人が思いついた突拍子もないアイデアとは? 長ブーツの形をしたイタリア半島のヒールの上のあたりにバリという町がある。5 月のある日この町の空港に降りたった。  空港ターミナルから乗り合いバスに乗り、終点の中央駅前で降りた。中央駅は19世紀ナポレオン時代に開発された町中にあり、碁盤の目のような通り沿いに7―8階建ての建物が並んでいる。バスや車で混雑した賑やかな通り沿いに真っ直ぐ歩いて、宿のある旧市街地に向かった。近世の町を後に、中世期に作られた旧市街地に入ると、それまでの喧騒とはまるで別の世界だった。宿がある車が入れない迷路のような狭い通りには、通りの起源は 9 世紀に遡ると書かれていた。  夕方薄暗くなり始める頃、迷路のような通りを歩き聖ニコラス大聖堂を目指した。丁度、お祭りの最中で、通りには色とりどりのイリュミネーションが灯り、通りのあちらこちらに奉られた聖人やマリア像の絵にも明かりが灯っていた。沢山の人が歩いてゆく方向に一緒についてゆくと、ロマネスク様式の聖ニコラス大聖堂が目の前に現れた。大聖堂は結構な人出で、中にはギリシャ正教会の司祭らしき人の姿や、ベールをかぶった女性の姿も目立つ。人混みの中に入って行くと、あたりでロシア語が聞こえる。カトリック教会で正教会の聖職者やロシアからの巡礼を見かけるのは珍しい。  薄暗い大聖堂の中に入って行くと、明かりが灯った聖ニコラスの像が目を引いた。巡礼の人々はこの像の前で立ち止まり祈りを捧げ、次々に地下の聖堂に下りてゆく。 聖ニコラスの遺体、アナトリアから盗まれる   サンタクロースの起源ともいわれる聖ニコラスは、 2 ~ 3 世紀アナトリア(現在のトルコ、当時はローマ帝国の一部)の司祭だった。聖ニコラスの遺体はアナトリアのミラという場所の神殿に葬られたのだが、 11 世紀に遺体が盗まれた。犯人はバリの町人達だった。 11 世紀のバリは景気が悪かった。どうしたら町を再興できるかと町人達が知恵を出し合ったアイデアが巡礼呼び寄せだった。だが、沢山の巡礼に来てもらうためには貴重な聖遺物が欠かせない。そこで、大人気の聖ニコラスに白羽の矢がたった。  当時、ミラは東ローマ帝

落ちこぼれ太公とカタリーナ  マジョルカ恋物語2 Majorca

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   ショパンがジョルジュ・サンドと滞在したマジョルカ島ヴァルデモッサのカルテジアン修道院の庭園に、ぽっちゃりとした顔つきの髭の人物の胸像がある。モデルは19世紀後半から20世紀初めにかけて生きたハプスブルグ大公ルードヴィヒ・サルバトール(以下ルードヴィヒ)という人だ。ルードヴィヒは、トスカニー公国レオポルド2世を父に持ち、本来なら絢爛豪華なウィーン宮廷で一生を送るはずだったのだが、宮廷生活から逃げ出しマジョルカ島に居ついてしまった。 ソン・マロイグ(Son Marroig)からの眺め  ヴァルデモッサから7−8キロほど離れた海沿いの高台にソン・マロイグと呼ばれるルードヴィヒの館がある。田舎の地主屋敷のような石造りの館の中は、テラコッタやパステル調の壁の色が木の調度品と心地よく調和して居心地が良い。地中海を一望できる書斎には、ハプスブルグ家に因む品々や、肖像画がおかれ、本棚の中にはルードヴィヒ筆による数々の学術書が展示されていた。 ソン・マリオグ館の蔵書。ルードヴィヒの著書が数多く展示されている。  ルードヴィヒは子供の頃から知的好奇心旺盛であったらしく、語学にも長け、王族としては珍しく大学で勉強した。宮廷の許可を得てプラハ大学で法学と哲学を専攻し、ついでに科学と考古学も学んでしまう大の勉強好きだった。もし自分で将来を決める事ができたら、迷わず学者の道を選んだだろうが、若い大公の将来は軍指揮官と決まっていた。  大学を卒業するとウィーンのエリート士官学校に入学したが、授業には全く熱が入らなかった。挙げ句の果てには落第するし、長距離航海術などという王侯貴族らしからぬ技術習得に熱を上げた。  19歳になったルードヴィヒは、皇帝フランツ・ヨーゼフよりモラビア総督に任命され、晴れて成人大公の仲間入りをした。悲劇が起きたのはその矢先のことだった。  ルードヴィヒはこの時18歳の従姉妹マティルダに恋をしていた。そのマティルダが焼死してしまったのだ。マティルダは、こっそりタバコを吸っていたのを父親に見つかりそうになり、タバコをドレスのフリルの下に隠したのだが、そのタバコの火がドレスに引火してしまったのだ。この知らせを聞いたルードヴィヒはショックで倒れ、皇帝から病気療養の許可を得てウィーンを去った。  1867年、身分を隠しニューエンドルフ伯爵を名乗る20歳のルードヴィヒはマジョル

ショパンとサンド   マジョルカ恋物語1 Majorca

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    29歳のフレデリック・ショパンが、6歳年上の愛人ジョルジュ・サンドと彼女の子供2人と共にマジョルカ島の山間の村ヴァルデモッサに来たのは1839年12月のことだ。  今でこそマジョルカ島の玄関口パルマから車で20分程度とあり、昼間は観光客で混み合っているが、ショパンの時代のヴァルデモッサは、パルマから道なき道を何時間もかけて荷馬車や徒歩で行く鄙びた村だった。そんな山間の村に、突如、文化の最先端を行くパリから今をときめく芸術家カップルがやって来たのだから、さぞかし目立ったことだろう。(photo: ヴァルデモッサ Valldemossa) ジョルジュ・サンド  ポーランドが生んだロマン主義の天才作曲家フレデリック・ショパンは、当時、パリの貴族サロンで引っ張りだこの人気ピアニストだった。片やマダム・デゥパン事ジョルジュ・サンドは、同時代人ビクトル・ユゴーやオノレ・デ・バルザックを凌ぐ売れっ子作家だった。  当時は、女が小説を書くなど社会的に受け入れられない時代だったが、サンドはそんな社会の常識に妥協するような人物ではなかった。女性作家が受け入れられないと知ると、男性ペンネーム(ジョルジュ・サンド)で作品を発表し、男装姿でパリのカフェやサロンに登場し、人々をあっと言わせた。先祖に「強靭王」のあだ名を持つポーランド王アウグスト2世や、武勇で鳴らしたフランス元帥モーリス・デ・サクセを持つだけの事あり、度胸の座った女性だった。  裕福な祖母に自由奔放に育てられたサンドは、若い時に結婚して2人の子供を儲けたが離婚。その後パリで数々の芸術家との恋愛を繰り返した。リストやハイネらが出入りするパリの一流芸術サロンでそんなマチュアな女の目に留まったのが、亡命音楽家フレデルック・ショパンだった。 カルテジアン修道院庭のショパン像  デリケートで貴族的なショパンはサンドがこれまで知り合った男達とは違っていた。自分が守ってあげないと壊れてしまいそうな天才音楽家にサンドは夢中になった。故郷を失い、婚約者にも捨てられ沈み込んでいた純情なショパンを、まんまと手に入れたサンドは、「ハネムーン」を計画した。その行き先にサンドが選んだのが「すごくロマンチックな島」という評判のマジョルカ島だった。  だが、事はサンドの思い通りには運ばなかった。一行が到着したパルマにはスペイン本土の内戦を避けて逃げてき

日露戦争3 「ツシマ」の英雄ヴォウコヴィツキとカティンの森

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  (photo: 京都東福寺。日本海海戦の捕虜の多くは伏見俘虜収容所と呼ばれた複数の寺に収容された。東福寺はその中でも収容人数が最も多かった。)  ソ連のベストセラー「ツシマ」の英雄ヴォウコヴィツキが何故ソ連の捕虜収容所に入れられることになったのか?  そもそも、イェジー・ヴォウコヴィツキはポーランド人だった。ロシア帝国が崩壊すると、ボリシェビキを避け極東に逃れ、そこからフランスに渡った。そこで結成されたポーランド人部隊に加わりポーランドに戻った。  ピウスツキを国家元首として独立したばかりのポーランドはボリシェビキ軍の脅威にさらされ、早くも国家存亡の危機に直面していたが、ピウスツキ指揮下のポーランド軍がボリシェビキ戦争に勝利し、しばしの平和がやってきた。 1939年4月ポーランド、カトヴィツェ、中央がヴォウコヴィツキ将軍 (Public Domain)  ヴォウコヴィツキはポーランド陸軍で昇進し将軍になった。退役を目の前に控えた1939年9月1日、ドイツがポーランドを侵略し第2次世界大戦が勃発、同月17日には不可侵条約を結んでいたソ連が背後からポーランドを襲った。ヴォウコヴィツキを含む多くの将兵が 東半分の国土を占領したソ連の 捕虜になった。そして、兵士から引き離された2万人余りの将校らは、スタロベルスク、オスタシュクフ、コジェルクスの三ヶ所の施設に収容されたのだ。  これはヴォウコヴィツキにとって2回目の捕虜生活だった。35年前、対馬沖で決死の戦闘を続けた翌日、日本海軍の追跡にあい捕虜になった。血気盛んな22歳のヴォウコヴィツキは京都の捕虜収容所から脱走し、オーストラリア行きの船に乗ろうとして捕まった。脱走を図った罪で2年の禁固刑を受けたが、6週間後にあっさり釈放された。だが、今回の捕虜生活は危険で何が起きても不思議では無かった。捕虜収容所は軍の管理下に置かれ国際規約に基づき運営されるべきなのだが、この収容所は違っていた。ここを管理しているのは軍ではなく、NKVDと呼ばれるソ連内務省人民委員会、つまりスターリンの秘密警察だった。  ヴォウコヴィツキが収容されたコジェルスク収容所は、かつてラスプーチンも宿泊したと言われる旧修道院だった。建物は荒れ果て、壁には革命の時についたらしき銃弾の跡が生々しく残っていた。数千人の将校がここに収容されたが、その半数以上は普段は