29歳のフレデリック・ショパンが、6歳年上の愛人ジョルジュ・サンドと彼女の子供2人と共にマジョルカ島の山間の村ヴァルデモッサに来たのは1839年12月のことだ。
今でこそマジョルカ島の玄関口パルマから車で20分程度とあり、昼間は観光客で混み合っているが、ショパンの時代のヴァルデモッサは、パルマから道なき道を何時間もかけて荷馬車や徒歩で行く鄙びた村だった。そんな山間の村に、突如、文化の最先端を行くパリから今をときめく芸術家カップルがやって来たのだから、さぞかし目立ったことだろう。(photo: ヴァルデモッサ Valldemossa)
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ジョルジュ・サンド |
ポーランドが生んだロマン主義の天才作曲家フレデリック・ショパンは、当時、パリの貴族サロンで引っ張りだこの人気ピアニストだった。片やマダム・デゥパン事ジョルジュ・サンドは、同時代人ビクトル・ユゴーやオノレ・デ・バルザックを凌ぐ売れっ子作家だった。
当時は、女が小説を書くなど社会的に受け入れられない時代だったが、サンドはそんな社会の常識に妥協するような人物ではなかった。女性作家が受け入れられないと知ると、男性ペンネーム(ジョルジュ・サンド)で作品を発表し、男装姿でパリのカフェやサロンに登場し、人々をあっと言わせた。先祖に「強靭王」のあだ名を持つポーランド王アウグスト2世や、武勇で鳴らしたフランス元帥モーリス・デ・サクセを持つだけの事あり、度胸の座った女性だった。
裕福な祖母に自由奔放に育てられたサンドは、若い時に結婚して2人の子供を儲けたが離婚。その後パリで数々の芸術家との恋愛を繰り返した。リストやハイネらが出入りするパリの一流芸術サロンでそんなマチュアな女の目に留まったのが、亡命音楽家フレデルック・ショパンだった。
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カルテジアン修道院庭のショパン像 |
デリケートで貴族的なショパンはサンドがこれまで知り合った男達とは違っていた。自分が守ってあげないと壊れてしまいそうな天才音楽家にサンドは夢中になった。故郷を失い、婚約者にも捨てられ沈み込んでいた純情なショパンを、まんまと手に入れたサンドは、「ハネムーン」を計画した。その行き先にサンドが選んだのが「すごくロマンチックな島」という評判のマジョルカ島だった。 だが、事はサンドの思い通りには運ばなかった。一行が到着したパルマにはスペイン本土の内戦を避けて逃げてきた避難民が押し寄せ、ホテルは満杯、ようやく見つけた宿泊先は粗末でロマンチックなハネムーンどころではなかった。そんな時、山間の村ヴァルデモッサにあるカルテジアン修道院の房が空いていると聞きつけて、サンドは早速そこを借りる事にした。 |
ショパン通り(Carrer Chopin) からカルテジアン修道院を望む |
一行が宿をとったカルテジアン修道院は、今でもヴァルデモッサの小高い丘の上に立っている。修道院の歴史は14世紀に遡るが、ショパンとサンドがここに滞在した3年前に、修道会はスペイン政府により解散させられ建物も競売に出され、人手に渡っていた。
ショパンとサンド一家が滞在した「ショパン房」は広々とし、テラスからは近郊の景色が見渡せた。房の中にはショパンやサンドの肖像画や楽譜などが展示され、ショパンがわざわざパリから取り寄せたプレイェルの小さなピアノもあった。
このピアノは、ショパンが「雨垂れ」プレリュードを完成させたと言われるもので、どんな音がするのかと興味をそそられた。ワルシャワの知人でこのピアノの音を聞いたという人がいた。夏休みにこの房を訪ねた時にちょっと目を離した隙に、3歳の息子さんがピアノに駆け寄りポンポンと鍵盤を叩いてしまったそうだ。あたりに何とも言えないショパンのピアノの音が鳴り響き、警備員が駆け寄ってくる騒ぎになったのだが、この「事件」のせいか、目の前のピアノの鍵盤は透明のプラスティックカバーにしっかりと守られていた。
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修道院のショパンのピアノ |
ショパン房を訪ねた日の夕方、突然大雨になった。宿の前の路地には鉄砲水が流れ、瞬く間に気温が下がった。冬のヴァルデモッサではこんな天気が続く。ショパン一行がここに滞在したのは真冬だった。せっかくロマンチックな修道院に落ち着いたのも束の間、体の弱いショパンが忽ち体調を崩してしまった。
その上、人気のない修道院は感性の強いショパンの想像力を揺さぶった。サンドが子供達と散歩から帰ってくると、亡霊の気配に怯えたショパンが真っ青な顔をしてピアノの前に座りこんでいることもあった。サンドは、そんなショパンに付き添い母親のように世話をした。
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ショパン房 |
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ショパン房のテラス |
ジョルジュ・サンドが大人気作家であった時代はとうの昔に過ぎてしまったが、ヴァルデモッサの土産物屋の店頭には、所狭しとジョルジュ・サンドの紀行小説「マジョルカの冬」が並んでいる。スペイン語版やフランス語版はもちろんのこと、英語、ロシア語、ポーランド語版まで揃っている。
一見、マジョルカの宣伝に役立つと思いがちだが、実はこの本のなかで、サンドはマジョルカの人達を「猿」呼ばわりして散々こき下ろしている。ヴァルデモッサ滞在中、サンドは地元の女達から散々嫌がらせを受けた。食材を買い付けようとすると、法外な値段をふっかけられ、ショパンが結核だという噂が広がると、村中で毛嫌いされた。若い愛人連れのタバコをスパスパ吸う子連れ中年女の存在が、保守的な地元の女どもの感情を逆撫したのも十分想像できる。その上、日曜日のミサにも姿を見せない不道徳者がよりによって「修道院」に住んでいると言うのも村人達には気に入らなかった。
気の強いサンドは村人の仕打ちに黙ってなどいなかった。数年後に発表した「マジョルカの冬」の中で、思いっきり仕返しした。だが、この本がバルデモッサ中で売られている様子を見たら、さすがのサンドもマジョルカ人の商魂にシャッポを脱いだことだろう。
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サンドの「マジョルカの冬」左はポーランド語版、右はロシア語版 |
ショパンとサンドのロマンスはマジョルカの「ハネムーン」から8年後に終焉を迎えた。体調の悪化するショパンを捨て、新たな愛人との生活を始めたサンドは、ショパンとの恋愛を題材にした小説「ルクレツィア・フロリアーニ」を発表した。
容姿も美しく心も清い女主人公ルクレツィア(もちろんサンドがモデル)は元愛人との間の子供を育てている。ルクレツィアは6歳年下の貴族カロル(ショパンがモデル)と恋に落ちるが、カロルの嫉妬心から悲劇的な終幕を迎える、と言う内容だった。ショパンの友人達は、これでは2人の愛の破局の責任を一方的にショパンになすりつけているようなものではないか、と憤慨したが、当のショパンは、元愛人の仕打ちにあっても、じっと沈黙をしたままだった。
ショパンはその2年後、数々の名曲を残し39歳の短い生涯を閉じた。パリのショパンのアパートで遺品の片付けていた姉ルドビカは、ショパンの宝物箱の中から綺麗にリボンで結ばれたジョルジュ・サンドの手紙の束を見つけた。ショパンが生涯愛し続けたジョルジュ・サンドは、ついにかつての恋人を見舞うことも、葬儀に参列することもなかった。だが、ショパンにとって、ショルジュ・サンドと過ごした日々は、幸せな時であったに違いない。あのいろいろあったヴァルデモッサの冬も、懐かしい思い出の一つだっただろう。
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ショパン房テラスの薔薇
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YoueTube: 「ショパン ポーランドの至宝」
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