ミュシャの「クオ・ヴァディス」堺緞通を訪ねて   Sakai, Japan

 




(写真:アルフォンス・ミュシャ(1)作「クオ・ヴァディス」一部)

 今年5月、日本に帰国中に堺に行ってきた。お目当ては堺アルフォンス・ミュシャ館で4月から展示されている堺緞通「クオ・ヴァディス」だ。

 「クオ・ヴァディス(2) 」とは古代ローマの皇帝ネロ時代を舞台にしたポーランド人作家ヘンリク・シェンキェヴィッチ(3) の歴史小説だが、その中の一場面、エウニケという奴隷の少女が密かに恋する主人ペトロニウスの代理石像にキスしようとする情景をアール・ヌーヴォーの代表的画家ミュシャが油絵に描いた。この堺緞通は、ミュシャの油絵の絵柄をそのまま絨毯に織り上げたものだ。

 小説「クオ・ヴァディス」は、1895-6年にワルシャワの新聞ガゼータ・ポルスカ (4)などに連載され話題になり、欧米で翻訳版が出ると忽ち大ベストセラーとなり、「クオ・ヴァディス」ブームを巻き起こした。ちなみに日本でも初の翻訳版が明治時代に出版された。

20世紀初頭に出版された日本語版クオ・ヴァディス

 数年前、どこかで堺アルフォンス・ミュシャ館が小説「クオ・ヴァディス」の一幕を題材としたミュシャの油絵を堺緞通に織るためのクラウド・ファンディングをしているという記事を目にした。私にはポーランドに関係する記事にすぐ吸い寄せられてしまう習性があるのだが、それに加えて堺市にある大阪刑務所(!)に受け継がれる伝統工芸技術を使って「クオ・ヴァディス」を堺緞通に織り上げる…という奇抜な企画にも興味をそそられた。早速、僅かながら寄付をさせてもらったのだが、その堺緞通「クオ・ヴァディス」が完成しミュシャ館で公開されるというので堺に寄ることにしたのだ。

堺アルフォンス・ミュシャ館入り口

 堺に到着後、早速ホテルからタクシーでミュシャ館に向かった。堺は安土桃山時代の南蛮貿易や千利休で有名だが、古墳群がある事でも知られている。タクシーの窓から見た町の様子は、ごく普通の日本の中型都市だが、街中に立ち並ぶ建物の後ろに古墳らしきこんもりとした森が見え隠れするのは堺ならでは風景だ。 

「ミュシャ謎の絵画」特別展のポスター

 「ここですよ」とタクシーの運転手に言われ高層ビルの前でタクシーを降りた。地上階の商業施設を通り抜けて2階にあるミュシャ館前に出ると特別展「ミュシャ謎の絵画」と書かれた「クオ・ヴァディス」の大きなポスターが目に入った。ミュシャの「クオ・ヴァディス」に秘められた謎を解き明かしてくれるらしい。

 実はこの絵について疑問に思っていることがあった。去年(2024年)7月にシドニーのNSW州立美術館で開かれたミュシャ展で「クオ・ヴァディス」の習作を見る機会があったのだが、この絵の注文依頼主についての不可解な説明が気になった。習作はプラハのミュシャ財団の所蔵だが、「(…)1902年にヘンリク・シェンキェビッチが依頼し、ミュシャは1906年にシカゴで大型油絵を完成した(…)、第一次世界大戦が勃発しミュシャとシェンキェビッチの間の連絡が途絶えてしまった。絵画はシェンキェビッチに届けられる事もなく、ミュシャは代金を受け取ることがなかった(5)」 と説明書きがあった。

NSW州立美術館で見たクオ・ヴァディス習作

NSW州立美術館で見たクオ・ヴァディス習作ペトロニウスの頭

 だが、絵が完成した1906年から第一次世界大戦が勃発する1914年まで8年間もの年月があった。1905年にノーベル文学賞を受賞したシェンキェヴィッチは人気絶頂で、作家の動向は新聞種にもなったはずだし、作家がオブレンゴレック(Oblęgorek)(6) と言う土地にある館に住んでいたことも広く知られていた。芸術界にネットワークを持っていたミュシャともあろう人物がシェンキェヴィッチと連絡が取れなかった、というのはおかしくはないだろうか?

このポスターには習作を描くミュシャの様子が写っている。

 「館内撮影禁止です。写真撮影ができるのは撮影OKのサインが出ているところだけですよ」とミュシャ館の入り口で係の人に釘を刺された。カメラを手に持っていたので念を押されたのだろう。わざわざ南半球から来て写真ダメとは残念だったが、規則に従うしかない。

 ミュシャ館はオフィスに使うような空間を利用しており、天井も低く展示スぺースも限られている。だが、展示内容は充実しており十分満足できるものだった。ここに来て知ったのだが、堺市は約500点ものミュシャ作品を所蔵している。このコレクションは、ミュシャのファンだった「カメラのドイ」の創業者である故土井君雄氏が収集したもので、特別展の目玉「クオ・ヴァディス」も土井氏が直接ミュシャの息子ジリ・ミュシャ氏から購入した作品なのだそうだ。ミュシャの有名なポスターや、装飾品の見学を終え、いよいよ「クオ・ヴァディス」の展示場に入った。

ミュシャ「クオ・ヴァディス」の謎 

2つの「クオ・ヴァディス」。向かって左がミュシャの油絵、左は堺緞通。
ここは写真OKだった。

「クオ・ヴァディス」の展示場には2つの「クオ・ヴァディス」が並んでいた。向かって左側がミュシャの油絵、そして右側が堺緞通「クオ・ヴァディス」だ。遠目には同じ絵が2枚あるかのようだったが、緞通を近くでみると表面が柔らかく手織りらしい優しさがあり、色も油絵よりほんの少し鮮明で美しい。110色以上の糸を使って2名の織り手が2年かけて完成させたそうなのだが、このような精巧な技術が大阪刑務所の生産技術取得訓練の一環として受刑者に受け継がれているとは驚きだった。

堺緞通の一部分

 展示場を進むにつれ、ミュシャの絵に関する謎が解かれてゆくのだが、絵画の注文主の正体についても明かされていた。「クオ・ヴァディス」をミュシャに注文したのは、作家ヘンリク・シェンキェヴィッチではなく、パリ在住のヘンリク・シェンキェヴィッチの甥シャルル・ジョゼフ・シェンキェヴィッチ伯爵(7)だった、というのだ。それを裏付ける証拠として当時のフランスの新聞フィガロやル・マタン等に掲載された記事が紹介されていた。その内容をまとめると以下のようになる。

 「パリに住む「クオ・ヴァディス」の作家ヘンリク・シェンキェヴィッチの甥、魅力的な22歳のシャルル・ジョゼフ・シェンキエヴィッチは、ある仕立て屋の店員に勧められ「ペトロニウス」という名の店をラ・トリニ広場(8) に出すことにした。この店員を新店舗のディレクターとして雇う契約を交わし、この店に飾るためミュシャに「クオ・ヴァディス」の絵を注文した。すでにこれだけで42,000フランもの費用がかかった。シェンキェヴィッチ家は経済感覚に欠けるシャルルの浪費をやめさせるため、裁判所で後見人をつける手続きをした。新店舗出店計画は頓挫し、ミュシャへの支払いも滞った。店員から雇用違約金を要求する裁判を起こされたシャルルは、1903年12月7日付けの叔父(ヘンリク・シェンキェヴィッチ)に宛てた手紙が提出した。そこには、叔父が約束した資金提供を5ヶ月前に撤回したため店舗出店計画が頓挫してしまった、改めて資金援助をしてほしいなどと書かれていた。」


ルノアール作ラ・トリニ広場 (public domain)

 新聞記事はシャルルをめぐる裁判について書かれており、事件の大筋は事実と考えるのが妥当だろう。 しかし…ここで新たな疑問が湧いた。シャルルは本当にヘンリク・シェンキエヴィッチの甥なのだろうか?
 ヘンリク・シェンキェヴィッチには兄一人と四人の妹がいた。兄カジメシュは1863年に起きた1月蜂起に参加し、後国外に亡命、普仏戦争に参戦し1871年に戦死したと言われている。カジメシュに家族がいたという記録はないが、仮にカジメシュに息子がいたとしても1904年ごろに22歳だったシャルルとは年齢が合わない。ヘンリクの妹ゾフィアは従兄弟ルツィアン・シェンキエヴィッチと結婚したので、ゾフィアの子供はシェンキェヴィッチを名乗っていたはずだが、ルツィアン・シェンキエヴィッチ家は借金まみれで経済的にも恵まれてはいなかった。そんな家庭の息子が突如パリの新聞に「浪費家の伯爵」として登場するだろうか?それとも、シャルルは「甥」ではなくシェンキェヴィッチの近親者だったのだろうか?
ヘンリク・シェンキェヴィッチ(public domain)

 もう一つの疑問は、仮にシャルルが近親者だったとしても、ヘンリク・シェンキェヴィッチがパリで店を出すための資金援助など約束しただろうか?という点だ。
  そもそもヘンリクは超売れっ子作家ではあったが、懐具合は決して良くなかった。世界的人気作家だから膨大な印税収入があっただろうと思いがちだが、実はそうではなかった。当時のポーランドは隣国3国に分割占領支配されておらず、ヘンリクはロシア帝国民だった。ロシアは著作権につき定めたベルヌ条約に加盟しておらず、国外でどれだけ小説が売れようと舞台化や映画化されようと、ヘンリクには一切報酬は支払われなかったのだ。そればかりか、国内(ロシア帝国内)の印税もシェンキェヴィッチが外国人(ポーランド人)だという理由で支払われなかった。
 シェンキェヴィッチはわずかな著作料で自分の家族や父親、妹一家の面倒を見ていた。ある時、匿名のファンから多額の寄付を受け取ったが、全て社会的目的に充てた。オブレンゴレックの美しい館も、経済的に余裕のないシェンキェヴィッチのためにファンが寄付を集め購入しプイレゼントしたものだった。シェンキェヴィッチは1905年にノーベル賞を受賞し、経済状態は向上しただろうが、人々が想像するような大金持ちセレブとは程遠い生活をしていた。1913年にシェンキェビッチは「Le Matinや他の新聞に、僕がヨーロッパで「クオ・ヴァディス」で150万、アメリカで同額、「砂漠と荒野で(9) 」の映画化で100万儲けたという記事が出たのを見たかい?(…)この記事のせいで祝電やら、借金やら援助を求める手紙をたくさん受け取ったよ。400万の最初の数字「4」が無いのが残念だよ(10)」 と親戚に宛てて書いた手紙に書いている。そんなヘンリクがシャルルに多額の資金援助の約束などしただろうか?

1902年のオブレンゴレック (public domain)

 さて、この疑問はどうやって解くべきか?悩んでいると、夫アンジェイがオブレンゴレックのヘンリク・シェンキェヴィッチ博物館に電話してみようかと言い出した。それを聞いて「渡りに船」と問い合わせてもらった。電話口に出た博物館の係の人は少し時間をくれれば調べてみると返事してくれた。今、その回答を待っているところだ。


1951年ハリウッド映画「クオ・ヴァディス」のポスター (public domain)





(1) Alphonse Mucha (1860-1939)
(2) Quo Vadis
(3) Henryk Sienkiewicz (1846-1916)
(4) Gazeta Polska
(5) “(…) First commissioned in 1902, Mucha completed the large oil in Chicago in 1906 but continued to rework it over many years, changing its title to Quo vadis ('Where are you going?'). With the outbreak of the First World War, Mucha lost contact with Sienkiewicz. The painting was never delivered and Mucha was never paid.”
(6) Oblęgorek
(7) le comte Charles Stanislas Joseph Sienkiewicz
(8) La place de la Trinité
(9) “W pustyni i w puszczy” 1911年に発表された青少年向けの本
(10) Siedziby wielkich Polaków, Barbara Wachowicz, Świat Książki 2015 Warszawa p513から引用


コメント

このブログの人気の投稿

世界最大の金塊を掘り起こした2人の男の話  Hill End, NSW, Australia

マリア・クレメンティーナの嫁入り4(最終回) マイ・ボニー Rome ITALY & SCOTLAND