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英国王リチャード・ライオンハートの墓を訪ねて フランス ロワールバレー Val de Loire

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 ロビン・フッド伝説で有名なイングランド王リチャード・ライオンハート(獅子心王) (1) はフランスに葬られた。ある年の秋、リチャードが埋葬されたフォンテンブロ修道院 (2) をフランス中部のロワールバレーに訪ねた。 (Photo: 修道院正門)  12世紀創設の修道院には最盛期数千人もの修道士や修道女が生活していた。広々とした敷地内には教会や病院など立派な建物が点在していた。   フランスの文化財にはフランス革命で荒らされ何も残っていない建物が多い。この修道院も 革命で建物や財産が没収され、修道女らは追い出された。修道院は監獄に変わり20世紀に至り、第二次大戦中にはレジスタンスの処刑も行われた。   20世紀後半に 修道院は文化財として正式に認知されたのだが、 ガランとして剥き出しの壁と天井と床以外何もない建物には、かつて 人が生きていたという気配すらない。 教会内部  修道院の教会は巨大なゴシック建築だ。中に入ると礼拝堂のだだっ広いスペースに4体の彫像が横たわっていた。かつて棺の上に置かれた彫像でいずれも目を瞑り頭には王冠をつけている。一列目はイングランド王ヘンリー2世 (3) と王妃エレオノール・ダテキーヌ (4) 、二列目はリチャード・ライオンハートとリチャードの義理の妹イザベラだ。 4体の彫像。手前左がリチャード 英語が苦手だったリチャード  リチャード・ライオンハートは、ロビン・フッド伝説に登場する。ロビン・フッド伝説は、十字軍に出かけたリチャード不在中のイングランドで悪政を敷き人々を苦しめる代官に、義賊ロビン・フッドが挑戦するというストーリーだ。何度か映画化もされ、1991年版ケビン・コスナー主演の「ロビン・フッド」では、映画のクライマックスにショーン・コネリー扮するリチャードが颯爽と登場する。勿論リチャードは「正義の味方」だ。リチャードが帰国したイングランドには平和と秩序が戻るのだ。 リチャード・ライオンハート  映画の中ではイングランドの象徴のように描かれたリチャードだが、史実上のリチャードはイングランドとの絆は意外に弱い。  リチャードの父親は、フランス中部のアンジュー公国(ロワールバレー周辺はこの公国の中)を世襲し、母親がイングランド王女であったことからイングランド王位を獲得し、アンジュー朝(プランタジェネット朝とも言う) (5) 初代のイン

中世の大学を支えた意外な資金源  ポーランド クラクフ Kraków

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 ポーランドの古都クラクフにあるヤゲロー大学  は、1364年に創設されたヨーロッパ最古の大学の一つだ。 (1) (photo: ヤゲロー大学最古の建物コレギウム・マイウスCollegium Maius)  この大学を創設したのはポーランド・ピアスト王朝最後の王様だったカジメシュ大王だ。国内制度の改革を進めたカジメシュの宮廷では、他国との取り決めや法律などの専門知識を持つ高等教育を受けた家臣の役割が増えていた。文字 が読めないカジメシュを補佐するために、法律の知識があり、ラテン語や外国語に長けた人物を雇い入れなければならなかった。大学はボローニャやパリなど数少なく、卒業生の数も限られていたので、優秀な人材はどこの宮廷も必要としており、人材確保は容易ではなかった。 カジメシュ大王  隣国ボヘミア王国のカレル4世が大学を創ったのを見て、カジメシュはクラクフにも大学を創ることにした。だが、「大王」と言われた名君でも、勝手に大学を開くというわけにはいかなかった。大学を開くためには知識人の協力がいる。この時代の知識人と言えば聖職者と決まっていたので、聖職者のボスである教皇の許可を得なければならなかった。  クラクフとアビニヨン(当時の教皇はアビニヨンにいた)の間を外交団が何度も往復し、ようやく教皇の合意を得た カジメシュは、 早速大学を開設した。生徒も集まり講義が始まったが、間も無く資金面で行き詰まってしまった。校舎建設も始めたものの、資金不足で中断し、講義は仮住まいで行なわれた。教授陣の報酬も嵩み、資金繰りがつかなくなってしまった。カジメシュは教授の人件費を教会に負担させるなど、経費削減策を図ったのだが、大学経営はカジメシュが思ったようには行かなかった。  大学開校から6年後にカジメシュが亡くなると、ポーランド王位はカジメシュの甥、ハンガリー王ルドヴィック1世が継いだ。ルドヴィックは、在位中ほとんどポーランドを訪れることもなく、大学経営にも無関心だった。後ろ盾を失った大学は自然消滅してしまった。 左:女王ヤドヴィーガ、中央:ヴワディスワフ2世ヤゲロー  クラクフの大学再開に情熱を燃やしたのは、ルドヴィックの死後ポーランド王位を継いだ女王ヤドヴィーガと、彼女の夫ヴワディスワフ2世ヤゲローだった。ヤドヴィーガは大学再開を見ることなく1399年に26歳の若さで亡くなったが、個人の

女領主暗殺事件  ポーランド王妃ボナ・スフォルツァ暗殺の真相 イタリア バーリ Bari

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(絵画:ポーランド王妃にしてイタリア・バーリ女領主 ボナ・スフォルツァ  Cranach the Younger作)  孤独な金持ち老女を狙った殺人事件。今も昔も人の欲には限りがない。 時は1557年11月。南イタリア、バーリの町は不穏な噂で持ちきりだった。領主が急死し、その死因が何と毒殺だというのだ。しかも「犯人はスペイン王だ」というのだから穏やかではない。  亡くなったのは、ボナ・スフォルツァという 63 歳の女領主だが、ただの小公国の領主ではない。ボナはミラノ公爵を父に、ナポリ王女を母に持つ名門の生まれで、先代ポーランド国王故ジグムント1世の妃だった人物だ。時のポーランド王、ジグムント2世アウグストはボナの実子だ。 (上のphoto: 迷路のような細道が続くバリの古い町。 中央に映っているのは道に迷い、旅行鞄を脇に抱えて宿を探し回る作者)   一方、殺人疑惑が掛けられたスペイン王とは フィリップ2世、 英国女王メアリー・テゥーダーの夫でもある。当時のスペインは「太陽の沈まぬ王国」と言われた大帝国だ。支配地はスペイン、ポルトガル、ナポリ王国、ミラノ大公国ばかりか、オランダ、アメリカやフィリピンなど数多の植民地を持っていた。よりによって何故そんな人物が、元ポーランド王妃の毒殺容疑者と囁かれたのだろうか? フィリップ2世  Titian作  ボナはミラノの近郊のヴィジェヴァーノで生まれ、8 歳の時に未亡人となった母イザベラの領地バーリに移り住んだ。イザベラの宮廷にはルネサンス期の名だたる芸術家や学者が出入りし、バーリは南イタリアの文化の中心地として栄えた。  華やかなバーリ宮廷で育ったボナは、 1518 年1 月千人のお付きを従えポーランドに嫁いで行った。イザベラはその6年後に死去し、ボナはイザベラが所有していたバーリやロッサーノ公国などの財産を 相続した。 そのボナが夫の死後、1556 年5月に38 年間不在にしていた自分の領地バーリに戻って来た。  当時の常識では、一国の王妃が未亡人になったからといって息子が治める王国を出て実家に戻ってくるなど、前代未聞の出来事だった。ボナの息子の愛妻バルバラを嫌っていた事は有名だったので、ボナ里帰りの原因は息子ジグムント2世との不仲だろうと人々は噂した。しかも、ボナがポーランドから夥しい金銀財

11世紀の町興し イタリア バーリ Bari

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  不景気な町を救うため、11世紀の町人が思いついた突拍子もないアイデアとは? 長ブーツの形をしたイタリア半島のヒールの上のあたりにバリという町がある。5 月のある日この町の空港に降りたった。  空港ターミナルから乗り合いバスに乗り、終点の中央駅前で降りた。中央駅は19世紀ナポレオン時代に開発された町中にあり、碁盤の目のような通り沿いに7―8階建ての建物が並んでいる。バスや車で混雑した賑やかな通り沿いに真っ直ぐ歩いて、宿のある旧市街地に向かった。近世の町を後に、中世期に作られた旧市街地に入ると、それまでの喧騒とはまるで別の世界だった。宿がある車が入れない迷路のような狭い通りには、通りの起源は 9 世紀に遡ると書かれていた。  夕方薄暗くなり始める頃、迷路のような通りを歩き聖ニコラス大聖堂を目指した。丁度、お祭りの最中で、通りには色とりどりのイリュミネーションが灯り、通りのあちらこちらに奉られた聖人やマリア像の絵にも明かりが灯っていた。沢山の人が歩いてゆく方向に一緒についてゆくと、ロマネスク様式の聖ニコラス大聖堂が目の前に現れた。大聖堂は結構な人出で、中にはギリシャ正教会の司祭らしき人の姿や、ベールをかぶった女性の姿も目立つ。人混みの中に入って行くと、あたりでロシア語が聞こえる。カトリック教会で正教会の聖職者やロシアからの巡礼を見かけるのは珍しい。  薄暗い大聖堂の中に入って行くと、明かりが灯った聖ニコラスの像が目を引いた。巡礼の人々はこの像の前で立ち止まり祈りを捧げ、次々に地下の聖堂に下りてゆく。 聖ニコラスの遺体、アナトリアから盗まれる   サンタクロースの起源ともいわれる聖ニコラスは、 2 ~ 3 世紀アナトリア(現在のトルコ、当時はローマ帝国の一部)の司祭だった。聖ニコラスの遺体はアナトリアのミラという場所の神殿に葬られたのだが、 11 世紀に遺体が盗まれた。犯人はバリの町人達だった。 11 世紀のバリは景気が悪かった。どうしたら町を再興できるかと町人達が知恵を出し合ったアイデアが巡礼呼び寄せだった。だが、沢山の巡礼に来てもらうためには貴重な聖遺物が欠かせない。そこで、大人気の聖ニコラスに白羽の矢がたった。  当時、ミラは東ローマ帝

落ちこぼれ太公とカタリーナ  マジョルカ恋物語2 Majorca

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   ショパンがジョルジュ・サンドと滞在したマジョルカ島ヴァルデモッサのカルテジアン修道院の庭園に、ぽっちゃりとした顔つきの髭の人物の胸像がある。モデルは19世紀後半から20世紀初めにかけて生きたハプスブルグ大公ルードヴィヒ・サルバトール(以下ルードヴィヒ)という人だ。ルードヴィヒは、トスカニー公国レオポルド2世を父に持ち、本来なら絢爛豪華なウィーン宮廷で一生を送るはずだったのだが、宮廷生活から逃げ出しマジョルカ島に居ついてしまった。 ソン・マロイグ(Son Marroig)からの眺め  ヴァルデモッサから7−8キロほど離れた海沿いの高台にソン・マロイグと呼ばれるルードヴィヒの館がある。田舎の地主屋敷のような石造りの館の中は、テラコッタやパステル調の壁の色が木の調度品と心地よく調和して居心地が良い。地中海を一望できる書斎には、ハプスブルグ家に因む品々や、肖像画がおかれ、本棚の中にはルードヴィヒ筆による数々の学術書が展示されていた。 ソン・マリオグ館の蔵書。ルードヴィヒの著書が数多く展示されている。  ルードヴィヒは子供の頃から知的好奇心旺盛であったらしく、語学にも長け、王族としては珍しく大学で勉強した。宮廷の許可を得てプラハ大学で法学と哲学を専攻し、ついでに科学と考古学も学んでしまう大の勉強好きだった。もし自分で将来を決める事ができたら、迷わず学者の道を選んだだろうが、若い大公の将来は軍指揮官と決まっていた。  大学を卒業するとウィーンのエリート士官学校に入学したが、授業には全く熱が入らなかった。挙げ句の果てには落第するし、長距離航海術などという王侯貴族らしからぬ技術習得に熱を上げた。  19歳になったルードヴィヒは、皇帝フランツ・ヨーゼフよりモラビア総督に任命され、晴れて成人大公の仲間入りをした。悲劇が起きたのはその矢先のことだった。  ルードヴィヒはこの時18歳の従姉妹マティルダに恋をしていた。そのマティルダが焼死してしまったのだ。マティルダは、こっそりタバコを吸っていたのを父親に見つかりそうになり、タバコをドレスのフリルの下に隠したのだが、そのタバコの火がドレスに引火してしまったのだ。この知らせを聞いたルードヴィヒはショックで倒れ、皇帝から病気療養の許可を得てウィーンを去った。  1867年、身分を隠しニューエンドルフ伯爵を名乗る20歳のルードヴィヒはマジョル