中世の大学を支えた意外な資金源 ポーランド クラクフ Kraków, POLAND
(photo: ヤゲロー大学最古の建物コレギウム・マイウスCollegium Maius)
この大学を創設したのはポーランド・ピアスト王朝最後の王様だったカジメシュ大王だ。国内制度の改革を進めたカジメシュの宮廷では、他国との取り決めや法律などの専門知識を持つ高等教育を受けた家臣の役割が増えていた。文字が読めないカジメシュを補佐するために、法律の知識があり、ラテン語や外国語に長けた人物を雇い入れなければならなかった。大学はボローニャやパリなど数少なく、卒業生の数も限られていたので、優秀な人材はどこの宮廷も必要としており、人材確保は容易ではなかった。
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カジメシュ大王 |
隣国ボヘミア王国のカレル4世が大学を創ったのを見て、カジメシュはクラクフにも大学を創ることにした。だが、「大王」と言われた名君でも、勝手に大学を開くというわけにはいかなかった。大学を開くためには知識人の協力がいる。この時代の知識人と言えば聖職者と決まっていたので、聖職者のボスである教皇の許可を得なければならなかった。
クラクフとアビニヨン(当時の教皇はアビニヨンにいた)の間を外交団が何度も往復し、ようやく教皇の合意を得たカジメシュは、早速大学を開設した。生徒も集まり講義が始まったが、間も無く資金面で行き詰まってしまった。校舎建設も始めたものの、資金不足で中断し、講義は仮住まいで行なわれた。教授陣の報酬も嵩み、資金繰りがつかなくなってしまった。カジメシュは教授の人件費を教会に負担させるなど、経費削減策を図ったのだが、大学経営はカジメシュが思ったようには行かなかった。
大学開校から6年後にカジメシュが亡くなると、ポーランド王位はカジメシュの甥、ハンガリー王ルドヴィック1世が継いだ。ルドヴィックは、在位中ほとんどポーランドを訪れることもなく、大学経営にも無関心だった。後ろ盾を失った大学は自然消滅してしまった。
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左:女王ヤドヴィーガ、中央:ヴワディスワフ2世ヤゲロー |
クラクフの大学再開に情熱を燃やしたのは、ルドヴィックの死後ポーランド王位を継いだ女王ヤドヴィーガと、彼女の夫ヴワディスワフ2世ヤゲローだった。ヤドヴィーガは大学再開を見ることなく1399年に26歳の若さで亡くなったが、個人の財産や宝石などを大学再開資金に充てるよう遺言を残した。
ヤゲローは、ヤドヴィーガの遺産を使って、大学校舎用に建物(冒頭の写真コレギウム・マイウス)を買い、更に、クラクフ近郊にあるヴェリチカ塩鉱山(岩塩を掘る鉱山。専門的には岩塩坑というのだそうだ)の坑一つを購入した。
当時、塩は「白い金」と言われ貴重な資源だった。冷蔵庫のない時代の食料保存には塩が不可欠で、塩は大量に取引された。当時のポーランド王国の歳入の3分の1は塩収入で賄なわれいた。「白い金」に投資して、そこから得られる収入を大学運営に充てれば、大学が資金繰りに悩まされる事もなく末長く人材育成ができるだろうとヤゲローは判断したのだ。
ヴェリチカ塩鉱山。地下の巨大な聖キンガ礼拝堂。壁も床も岩塩だ。 |
ヴェリチカ塩鉱山。聖キンガ伝説の一場面。岩塩彫刻だ。 |
コレギウム・マイウス内部 |
コレギウム・マイウスに展示されている天文観測器具 |
何世紀かが過ぎ、ポーランドの黄金時代が終わると、ポーランドには試練の時代がやってきた。ヤゲロー大学もポーランドの波乱万丈の歴史の中で、幾度も危機に見舞われた。クラクフ一帯がオーストリア帝国に併合された時代にはドイツ語教育が強要された時期もあったし、第2次大戦中のドイツ占領下で教授陣が逮捕され強制収容所に送られるという酷い目にもあった。だが、大学は見事に再生し、今日も多くの若者達が学んでいる。
ヤゲロー大学校舎 |
(1)Uniwersytet Jagielloński 英語ではJagiellonian University
(2)Stanisław ze Skarbimierza ラテン語ではStanislaus de Scarbimiria (1360-1431)
(3)Paweł Włotkowic ラテン語ではPaulus Vladimiri (1370頃-1435)
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