マリア・クレメンティーナの嫁入り4(最終回) マイ・ボニー Rome ITALY & SCOTLAND
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(写真:マリア・クレメンティーナ 国立スコットランド美術館蔵 CC by NC)
ジェームスとマリア・クレメンティーナの夫婦喧嘩は間も無く教皇の耳にも入った。1724年に即位した教皇ベネディクト13世は、ステュアート王朝復興に積極的で自ら次男の洗礼を行った人物だった。ジェームスは教皇が修道院に引っ越してしまったマリア・クレメンティーナを説得してくれるだろうと期待したが、教皇は全面的にマリア・クレメンティーナの言い分を支持した。中でもプロテスタントのジェームス・マレーにチャールズ・エドワードの養育を任せたのは間違えだ、とジェームスに警告した。ジェームスはそれでも頑固に自分の決定を変えようとしないので、教皇はジェームスに支払っていた補助金を減らし、減らした分をマリア・クレメンティーナの手当てに付け足すと言い出した。そればかりか、スペイン王フィリップ5世と王妃 もマリア・クレメンティーナの言うことが尤もだとジェームスに書簡を送った。ローマでは「お気に入り」がすべて悪の根源だという噂が広がった。マリア・クレメンティーナを応援する「フランス派」や本国のメンバーの声も大きくなった。さすがのジェームスも「お気に入り」をこのままにしておくことは出来なかった。ジェームスはヘイ夫妻をローマの宮廷から追い出し、マリア・クレメンティーナには王妃に相応しい宮廷を持たせることに同意した。マリア・クレメンティーナは宿敵マレーもローマから追い出すよう求めたが、これ以上ジェームから妥協を求めるのは良くないというスペイン王妃の忠告を受け入れる事にした。ジェームスと和解が成立するまで、早くも2年が経っていた。
マリア・クレメンティーナが宮廷に戻る矢先の1527年6月、英国王ジョージ1世が亡くなった。王位獲得のチャンスが来たとジェームスは英国に渡るため教皇領アヴィニヨンに向かった。しかし、ジェームスには国内外の支援を集めることができなかった。英国ではジョージ1世の息子ジョージ2世が滞りなく英国王に即位し、ジェームスのチャンスはまたしても消えた。
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18世紀のアビニョン Public Domain |
スペイン王フィリップ5世はジェームスに当てた書簡の中に、ジェームスがマリア・クレメンティーナをきちんと尊重してきたのか反省すべきだ、と書かれていた。スペイン王妃は、ジェームスが役立たずの「お気に入り」を優先し、賢く忠実な妻を蔑ろにして、息子の教育を「お気に入り」に任せるなどマリア・クレメンティーナが家出して当然だ、このスキャンダルの原因はあなたですよ、このままではスペイン王にあなたへの支援をやめるように言いますよ、とジェームスに警告した。ジェームスは幼い時に父を亡くし、亡命王ジェームス3世となった。エネルギッシュな母がジェームスに代わり王宮を支配し、穏やかな性格のジェームスは母の力に押し潰されていた。いつしか国王として一人で物事を決めたい、と心の中で思うようになり、母が亡くなった直後に嫁いできた元気で明るく人気の高いマリア・クレメンティーナに権威を横取りされたくなかったのかもしれなかった。
ジェームスは、これからはスペイン王夫妻の助言に従いマリア・クレメンティーナの妃としての立場を尊重し、一緒に王位奪還を目指そうと覚悟を決めた。ジェームスはマリア・クレメンティーナに手紙を書き、アヴィニオンに来ないかと誘った。夫婦の再出発を宮廷から離れたアヴィニヨンで迎えたい、と思ったのだろう。だが、マリア・クレメンティーナは「アルプスを超えてアヴィニヨンに行くだけの元気がございません…」と返事をした。8年前にジェームスに嫁ぐため命懸けで雪解けのアルプス超えをしたあの情熱的なマリア・クレメンティーナはどこに行ってしまったのだろうか。
ジェームスの元に戻ったマリア・クレメンティーナには約束通り侍女、家臣、馬車、料理人などからなる王妃独自の宮廷が用意され、ジェームス不在時にはマリア・クレメンティーナに全宮廷の運営が任された。
マリア・クレメンティーナは、名実ともに王妃としての役割を務めることができるようになったが、家出に至った苦い経験や子供達から離れて過ごした修道院での年月がマリア・クレメンティーナの心や体に重くのしかかっていた。マリア・クレメンティーナは体調を崩し、息子達以外の訪問者を受け付けない日が続いた。幾度か妊娠が疑われたが、全ては誤診だった。やがてマリア・クレメンティーナは食事をほとんど取らなくなり体力が無くなった。1734年末、マリア・クレメンティーナ危篤のニュースがローマ中に広がった。教会にはマリア・クレメンティーナの回復を祈る人々が押し寄せ、パラッツォ・ムティ前の広場には王妃の病状を心配する人々が溢れ返った。そして1735年1月18日、マリア・クレメンティーナは32歳の生涯を閉じた。
教皇クレメンス12世の意向でマリア・クレメンティーナの葬儀は壮大に執り行われ、マリア・クレメンティーナの死を悼む人々の長い列が続いた。マリア・クレメンティーナの遺体は、聖ピエロト大聖堂に葬られた。
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マリア・クレメンティーナの葬儀の様子。国立スコットランド美術館蔵 CC by NC |
その後
マリア・クレメンティーナの長男チャールズ・エドワード・ステュアートは、ボニー・プリンス・チャーリーの愛称で知られるようになった。
1745年、ジャコバイト派最大の蜂起が始まった。25歳のチャールズ・エドワードは蜂起軍が待つスコットランドに上陸した。マリア・クレメンティーナの面影のあるハンサムなプリンスの到着で、勢いがついた蜂起軍は、瞬く間にスコットランド全土を制覇した。
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ボニー・プリンス・チャーリー John Pettie作 |
だが、翌年英国に攻め入った蜂起軍は4月カローデンの戦いで敗北、チャールズ・エドワードは英国軍の追手を交わし3ヶ月に渡る逃避行の末フランスに逃れた。ちなみにスコットランド民謡スカイ・ボート・ソングはこの逃避行が題材だ。英米テレビドラマ「アウトランダー」のテーマソングにもなったので耳にされた方もいるだろう。
スコットランドに残ったジャコバイト派は過酷な弾圧にさらされ、ジャコバイト派のシンボルでもあったタータンチェックの着用さえ禁じられた。
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カローデンの戦い Public Domain |
3代に渡ったステュアート一族の英国カムバックの夢は砕け去ったが、ボニー・プリンス・チャーリーはスコットランドの伝説的英雄となった。
いつの日からかスコットランドではこんな歌が流行った。
私のボニーは海原の向こうに眠る
私のボニーは海の向こうに眠る
私のボニーは海原の向こうに眠る
私のボニーを連れ帰ってきて・・・
一見、恋人の女性を懐かしがる歌のようにも聞こえるが、この歌の主人公はボニー・プリンス・チャーリーだ。歴史の陰でひっそり亡くなったポーランド王の孫娘がステュアートに嫁がなければ、ボニーはこの世に出ることはなかった。「私のボニーを連れ帰ってきて・・・」と言うリフレインは、息子を恋しがって若くしてこの世を去ったマリア・クレメンティーナ・ソビエスカの祈りの言葉のようでもある。
(終わり)
スコットランド民謡私のボニー:My Bonny is over the Ocean
アウトランダーのテーマソング、スカイ・ボート・ソング:'Outlander' The Skye Boat Song
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