マリア・クレメンティーナの嫁入り2  花嫁脱走 Innsbruck, AUSTRIA


 (写真:英国王ジョージ1世。英国ハノーバー朝第一代目の国王。Public Domain)

 英国王ジョージ1世にとって、英王位を狙うライバルジェームス・ステュアートの存在は常に心配の種だった。ジョージ1世の耳にはヨーロッパ各地のスパイからライバルの動向が逐次伝わってきた。

 英国王位は世襲制で父から息子に引き継がれて来たが、カトリック教徒のジェームス2世(ジェームス・ステゥアートの父)名誉革命で王位を失い亡命した後、英国王位にはジェームス2世のプロテスタントの娘メアリーとその夫のオレンジ公ウイリアムが共同統治者として就いた。英国王位に就いた。二人が子供を残さず亡くなった後は、メアリーの妹でプロテスタントのアンが女王となったが、アンも子供を残さないまま1714年に亡くなった。その後を継いだのが、英国王室と最も血縁が濃いプロテスタントだった神聖ローマ帝国ハノーバー選挙公ジョージ1世だった。血縁といってもかなりの遠縁である上、英国とは馴染みのないドイツ人が前国王の長男ジェームス・ステュアートを差し置いて英国王となったことにショックを受けた人も多く、1715年にジェームスを支持するジャコバイト派反乱が起きた。

 そのジェームスが結婚して跡取りが生まれれば、王位争いは次の世代まで続く事になるかもしれない。ジョージ1世はこの結婚を阻止するよう、同盟国だった神聖ローマ皇帝に圧力をかけた。

 神聖ローマ皇帝チャールズ6世(1)はマリア・クレメンティーナの従兄弟だった。ジョージ1世の要求を無視することはできなかったが、母エレオノラ皇太后(マリア・クレメンティーナの叔母)の機嫌を損ねないためにも、従姉妹の名誉を傷つけるようなことは避けなければならなかった。何とかマリア・クレメンティーナにこの結婚を諦めさせるのがよかろうと、自分の領地内でマリア・クレメンティーナ一行を足止めすることにした。
 チャールズの軍隊に逮捕されたマリア・クレメンティーナは、インスブルックの城に閉じ込められていた。身分相応の広い部屋をあてがわれ、侍女や召使にかしずかれてはいたが、出口を四六時中兵士が見張っており、外に出ることは許されなかった。

1700年のヨーロッパ地図。Public Domain 一部作者加工。マリア・クレメンティーナ嫁入りに関係する土地を記した。

 賢いマリア・クレメンティーナには自分の結婚が起こす波紋を想像することはできたが、まさか従兄弟に捕まるとは思わなかった。こんな侮辱を受けて黙ってインスブルックに閉じ込められているわけにはゆかないと、マリア・クレメンティーナは父や婚約者宛てに手紙を書きまくった。ヤクブ王子は早速チャールズにマリア・クレメンティーナ解放を嘆願したが効き目はなかった。
 マリア・クレメンティーナ逮捕の知らせを聞いたジェームスは、直ちに教皇クレメンス11世に援助を求めた。クレメンス11世はマリア・クレメンティーナの名付け親でもあり、この結婚を薦めた人物でもあった。教皇はチャールズにマリア・クレメンティーナ解放を求める手紙を送ったが、チャールズは聞く耳を持たなかった。
 チャールズはマリア・クレメンティーナにジェームスとの婚約を解消してオワヴァに帰るよう促したが、マリア・クレメンティーナは神に誓って約束した結婚を解消できないと頑固に言い張った。事態は解決する事なく間も無くインスブルックに冬がやってきた。

神聖ローマ皇帝チャールズ世 Public Domain

 マリア・クレメンティーナ逮捕のニュースはヨーロッパ中に広がった。マリア・クレメンティーナへの同情の声が高まり、チャールズ6世やジョージ1世にとってもこの状態を長引かせるのは好ましくなかった。何とかジェームスと結婚すると言い張っているマリア・クレメンティーナの心を変えさせようと新たな策を講じることにした。
 マリア・クレメンティーナの元をバーデン・バーデン侯爵(2) という青年が御機嫌伺いに通ってくるようになった。バーデン・バーデンはマリア・クレメンティーナと同年代の好青年で、チャールズ6世がマリア・クレメンティーナのために選んだ婿候補だった。目の前に颯爽とした求婚者が現れれば、監禁が長引き将来の見通しも立たず心細くなっているマリア・クレメンティーナも心変わりするに違いない、会った事もない反乱軍の親玉ジェームスの事など忘れるだろうと思ったのだ。ジョージ1世もこの策に乗り気で、マリア・クレメンティーナの心を射止めたものには1000パウンドの賞金を出すとまで言い出した。二人は何としてもこの策を成功させるつもりだった。

 マリア・クレメンティーナの状況は絶望できだった。すでに6ヶ月もインスブルックの意閉じ込められている。ジェームスとの結婚を諦めない限り、チャールズ6世はマリア・クレメンティーナを解放するつもりはなかった。だが、マリア・クレメンティーナは英国王位奪還のため戦うジェームスの支えになるという使命を諦めることはできなかった。春が近づき、マリア・クレメンティーナはジェームスがローマを離れスペインに行ったことを知った。スコットランドで再びジャコバイト派の反乱が起き、ジェームスは反乱軍に合流するはずだったのだ。こんな時にジェームスの助けもできない自分がもどかしかった。チャールズ6世の情けを待ってずるずると時間を費やす暇はなかった。マリア・クレメンティーナは決心を固め「ウォーナー様のおっしゃる通りにする覚悟ができました」と、父ヤクブ宛てに手紙を書き送った。
マリア・クレメンティーナ Public Domain

 ウォーナーとはあの牢破りのお尋ね者チャールズ・ウォガンの仮名だった。皇帝との交渉が絶望的だと判断したジェームスの指示で、ウォガンは早々と12月にインスブルックに潜入し、マリア・クレメンティーナ救出作戦のための現場視察を済ませていた。同志とともに数ヶ月かけてアルザック地方の隠れ家で救出作戦を準備したウォガンは、ジェームス、ヤクブ、そしてマリア・クレメンティーナの合意を得た後の4月26日、同志と共にインスブルック入りし、街外れの「黒鷹」という居酒屋に宿をとった。作戦実行は2日後、1719年4月28日深夜と決まった。
 その日、インスブルックは大嵐に見舞われた。この日の夜11時過ぎ、早々寝室に引き籠っていたマリア・クレメンティーナの部屋に見知らぬ女中が召使に伴われてやってきた。マリア・クレメンティーナと女中はウォガンに指示された合言葉を交わし、マリア・クレメンティーナは女中が着て来た大きなマントで全身をすっぽり包み、召使に連れられ部屋を抜け出した。急ぎ城門に向かうと、大嵐を避けて詰所にでも避難したのか番兵の姿もなかった。無事城門を抜け出したマリア・クレメンティーナは、通りの先で待っていたウォガンに駆け寄った。二人は挨拶もそこそこに仲間が待つ「黒鷹」に向かった。大雨で突風が吹き荒れる悪天候の中、やっとの思いで「黒鷹」に到着した時にはマリア・クレメンティーナはびしょ濡れだったが、服を乾かすのもそこそこに待機していた馬車に乗りこんだ。マリア・クレメンティーナはセルネス伯爵令嬢という触れ込みで、伯爵夫人役でエレオノル・ミセットという貴婦人が同行した。この作戦の成功はいかに早く神聖ローマ帝国領を抜け出すかにかかっていた。ウォガンに急かされ、馬車は一気に国境を目掛けて走り出した。
インスブルックのアンブラス城。マリア・クレメンティーナの監禁場所は数回変わったが、アンブラス城も監禁場所の一つだったと言われている。Public Domain

 翌朝、城内ではマリア・クレメンティーナがいないことが発覚し大騒ぎとなった。直ちに指名手配書を手にした使者が馬に飛び乗り、国境に向かって駆け出した。抜け目のないウォガンは、そんな事も予測し、使者が立ち寄りそうな道中の休憩所に仲間を配置していた。使者が休憩所に来ると、やけに陽気な外国人に囲まれ散々酒を飲まされた。うっかり眠り込んだ使者が目を覚ました時には、外国人も懐に入れておいた指名手配書も跡形もなく消えていた。
 この間、マリア・クレメンティーナ一行は、雪の残る山岳地帯をひたすら国境に向かって前進していた。といっても道中は災難続きだった。馬車ごと谷間に落ちそうになったり、代わりの馬が見つからなかったり、馬車が故障したりと散々な旅だった。だが、4月30日早朝、一行は国境を越えベニス共和国に入り、その2日後には教皇国領のボローニャに到着した。ここまで来れば皇帝の手は届かなかった。

17世紀に建設されたボローニャのガリエラGalliera門。教皇領であることを示す紋章が見える。作者撮影

 マリア・クレメンティーナの逃亡は思わぬ波紋を呼んだ。この顛末に激怒したチャールズ6世は、オワヴァに軍隊を送り込みヤクブを城から追い出してしまったのだ。ヤクブは皇帝の怒りがおさまるまで3年間各地を転々とする羽目になった。


(1) Charles VI  (ドイツ語: Karl; Latin)(1685生-1740死去)。チャールズの母エレオノル(Eleonore Magdalene of Neuburg)はマリア・クレメンティーナの母Hedwig Elisabeth (ポーランド語:Jadwiga Elżbieta)の姉。
(2) Louis George, Margrave of Baden-Baden (ドイツ語: Ludwig Georg) 

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