マリア・クレメンティーナの嫁入り3 ローマの人気者、家出 Rome, ITALY
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ローマの人気者
マリア・クレメンティーナは1719年5月16日、目的地のローマに到着した。ローマでは連日のように高位の聖職者や主だったジャコバイト派の面々の訪問を受け、教皇との会見などにも臨む忙しい毎日を過ごしていた。オワヴァから一緒に旅をした気心の知れた家臣や侍女とはインスブルックで別れざるを得なかった。知らない人ばかりのローマで唯一頼りにできる婚約者はスペインにいったきり、いつ帰ってくるのかもわからなかった。だが、そんなマリア・クレメンティーナの心細さとは裏腹に、ローマの上流階級は美しいお妃の登場に沸いた。7月17日にはマリア・クレメンティーナ17歳誕生日を祝って特別コンサートが開かれた。ジャコバイト派の反乱は失敗に終わった。ジェームスは8月末スペインから海路イタリアに戻った。イタリア西岸のリヴォルノ に上陸したジェームスは、ローマ北方100キロほどに位置するモンテフィアスコーネ でマリア・クレメンティーナと落ち合い、そこで結婚式に臨む事にした。9月1日夕方、二人の結婚式が執り行われた。ジェームスは「英国王」結婚の知らせをヨーロッパ各地の宮廷に送り、ジョージ1世を大いに怒らせた。
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モンテフィアスッコーネで行われたジェームスとマリア・クレメンティーナの結婚式 Public Domain |
ジェームスは若々しく愛らしいマリア・クレメンティーナを一目で気に入ったが、マリア・クレメンティーナのジェームスの印象はどのようなものだっただろうか。14歳年上のジェームスは、見かけのあまりパッとしない口数も少ない暗い感じの男性だった。だが、ジェームスはマリア・クレメンティーナに優しく、仲睦まじい新婚生活が始まった。モンテフィアスコーネで2ヶ月を過ごした後、二人は教皇が用意したローマの館パラッツォ・ムティに落ち着いた。美しく明るく社交的なマリア・クレメンティーナは一躍ローマ社交界の人気者になった。翌年1720年には長男チャールズ・エドワードが誕生し、ジェームスの支持者はこの知らせに大いに沸いた。愛らしいチャールズ・エドワードはすくすくと育ち、5年後1725年3月には次男ヘンリー・ベネディクトが誕生した。
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ジェームス・ステュアート Public Domain |
傍目にはマリア・クレメンティーナが幸せな毎日を送っているかのように見えたが、宮廷の内情は決して明るくはなかった。ジェームスは「お気に入り」と呼ばれる取り巻きを重用し、マリア・クレメンティーナはこの「お気に入り」に最初から敵視されていた。ジェームスが「お気に入り」にあれこれ王妃の悪口を吹き込まれ、王妃としての立場を尊重しようとしなかったこともマリア・クレメンティーナを深く傷つけた。「お気に入り」はジャコバイト派の有力メンバーとも対立を深めていた。有力メンバーは「お気に入り」が王妃を侮辱していると非難し、やがてジェームスとマリア・クレメンティーナの対立が、教皇やスペイン宮廷を巻き込む大スキャンダルに発展する事になった。
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ローマのPiazza dei Santi Apostoliにあるパラッツォ・ムティ(Palazzo Muti)(中央のオレンジの建物)。地元ではPalazzo Silvestraと呼ばれていた。作者撮影 |
パラッツォ・ムティ内部。ステュアート王家の住居があった2階に通じる階段。作者撮影 |
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一階の壁にはかつてここにステュアート王家が住んでいたことを記した碑があった。作者撮影 |
王妃の家出
ジェームスは、プロテスタントのジェームス・マレーと、マレーの妹マージョリーの夫ジョン・ヘイという人物を殊の外重用していたが、この「お気に入り」が権力を振り回し自分達の利益ばかりを優先したため、フランス派と呼ばれたジャコバイト派の有力者 や本国に潜伏する活動家に疎まれていた。また、「お気に入り」はマリア・クレメンティーナを敵視し、マリア・クレメンティーナの影響力を弱めようとした。王妃は王が営む宮廷とは別に、王妃に仕える臣下からなる宮廷を持つのが当時の常識だったが、ジェームスは「お気に入り」に言いくるめられそれを認めようとしなかった。これではマリア・クレメンティーナが王妃としてジェームスを支援しようとしてもその術がなかった。そればかりか、インスブルックからマリア・クレメンティーナを追いかけてローマに到着した使用人も体よく追い返され、マリア・クレメンティーナはマージョリー・ヘイに見張られ、気の知れた使用人もいない状態に置かれていた。
ある時「お気に入り」問題が大きくなりすぎ、さすがのジェームスもマレーを宮廷から遠ざける事にしたが、ヘイ夫妻がジェームスの傍に居残ったため、ジャコバイト派内の亀裂も収まらず、マリア・クレメンティーナへの嫌がらせも続いた。
1722年にスコットランドで武装蜂起に向けて準備が進められていたが、この企みは事前に発覚し、ジェームスの王位奪還のチャンスも泡と消えた。宮廷中が沈み込んでいる中で、マリア・クレメンティーナの気持ちを更に暗くする出来事が続いた。マリア・クレメンティーナの母が亡くなり、マリア・クレメンティーナが絶対の信頼を寄せていたチャールズ・ウォガやエレオノル・ミセットらもローマから立ち去る事になった。がっかりしていたマリア・クレメンティーナに親しかった姉の急死の知らせが届いた。
明るく活動的だったマリア・クレメンティーナは、人が変わったように連日自分の部屋に閉じこもった。だが、ひたすら王位奪還の夢実現を模索しているジェームスは、そんな妻の様子に気づかなかった。
マリア・クレメンティーナは1725年3月に次男を出産し、パラッツォ・ムティは喜びに包まれた。だが、その年の9月にフランス、英国、プロイセン王国が軍事協定を結び、ステュアート王朝復古の夢が再び遠のいた。
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チャールス・エドワード・ステュアート、マリア・クレメンティーナの長男。 |
気の晴れない毎日を過ごすマリア・クレメンティーナの唯一の喜びは息子たちだった。長男チャールズ・エドワードは4歳の可愛い真っ盛りで、侍女達に囲まれはしゃぎ回る息子と過ごす一時がマリア・クレメンティーナ唯一の幸せだった。だが、そんなマリア・クレメンティーナを奈落のどん底に突き落とす出来事が起きた。何の前触れもなく突然ジェームスがチャールズ・エドワードの養育をマリア・クレメンティーナから取り上げたのだ。しかもジェームスは新たな養育責任者としてあのジェームス・マレーをローマに呼び戻したのだった。
そして間もなく、ジェームスの仕打ちに深く傷ついていたマリア・クレメンティーナを根底から揺さぶる出来事が起きた。チャールズ・エドワードに会うため子供部屋を訪れたマリア・クレメンティーナの前にマレーが立ち塞がり、息子との面会を許さなかったのだ。それまで「お気に入り」の屈辱に黙って耐えていたマリア・クレメンティーナが一気に爆発した。王妃である自分が息子と会うことを家臣が禁ずるとは何事か!?と問い詰めるマリア・クレメンティーナに、マレーはジェームス3世の命令でございます、と言い返したのだ。
やっとの事で落ち着きを取り戻したマリア・クレメンティーナはジェームスの元に行った。そして、マレーの侮辱的な態度を非難し、王妃としての権限さえない自分の立場についての不満をぶつけた。マリア・クレメンティーナはぐずぐずしているジェームスに「お気に入り」を選ぶのか「妃」を選ぶのかお決め下さい!と最後通牒を突きつけ、パラッツォ・ムティを出て行った。
王妃の家出は前代未聞の出来事だったが、これは、自分を蔑ろにして子供の事でさえ相談しようとしないジェームスへの捨て身の抗議だった。
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