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コペルニクスの生涯を探る6 名声高まるコペルニクスを襲った不安 Frombork

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  遂に地動説の証明を成し遂げたコペルニクス。だが、聖書に相反する地動説を世に出すべきか悩んだ末に... (写真:天文学者コペルニクスー神との対話、ヤン・マテイコ作 1 ) 騎士団戦争の顛末  ドイツ騎士団との戦はポーランドの勝利に終わった。モスクワ公国を破り勢いに乗るポーランド王国相手に、強気だった騎士団長アルブレヒト・ホーヘンツォルレンも勝ち目がないと悟った。各地で続いていた戦闘は終わり、神聖ローマ皇帝らの仲裁による停戦交渉が始まり、アルブレヒトと騎士団の運命が決まった。  1525年4月10日、クラクフの中央広場でアルブレヒト・ホーへンツォレルンはポーランド王ジグムント1世の前に跪きポーランド王への永遠の忠誠を誓い、何世紀にも渡りポーランドと戦を繰り返したドイツ騎士団は解散した。その後にポーランド王国の属国としてプロイセン公国が誕生し、ジグムント1世はアルブレヒトをプロイセン公に任じた。あれだけポーランドに敵対心を持っていたアルブレヒトだったが、ジグムント1世にとっては血を分けた甥っ子だった。アルブレヒトはこうしてポーランド王国のエリートの仲間入りをした。 プロイセンの忠誠、ヤン・マテイコ作  騎士団との戦いが終わった後、コペルニクスはオルシュティン城を後にフロムボルクに戻った。大枚を叩いて年賦で買った立派な家は戦争で焼けてしまい、当面は他の聖職者らと共に修道院で仮住まいをせざるを得なかった。やがて焼け跡に質素な家を立て、後年De revolutionibus(回転について) 2 として知られるようになる本の原稿をまとめ始めた。  コペルニクスはすでに初めて天文学に触れた学生時代に太陽が地球の周りを回っているという「常識」は誤っていると気がついていた。天界を回転しているのは太陽ではなく地球だ、という自身の仮説をいつか証明したい!と若いコペルニクスは意気込んだ。だが、この仮説を数学的根拠に基づき証明するには十分な証拠が必要だ。そのために教会に仕えた後も(籠城中も)、天体観測を欠かさず続けたのだ。古代から伝わるシンプルな天体観測機器を使って日食や月食、木星食などを肉眼で観測し、自説を証明するために十分な観測結果を蓄積する為に何十年という歳月がかかった。  「転回について」をまとめ始めたこの頃、コペルニクスは学者として充実した日々を送っていた。他の天文学者が発表した

コペルニクスの生涯を探る5 盗賊と戦争 Olsztyn

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  (写真:16世紀初めのポーランド騎士の甲冑) ヴァルミア盗賊団  コペルニクスが教皇から依頼された暦改革プロジェクトに没頭している間、ヴァルミア司教区各地では盗賊の被害が相次いだ。人気のない街道で旅の商人が襲われ現金や商品が奪われた。盗賊に抵抗して怪我をしたり、命を落とす者もいた。しかも、盗賊の標的になったのは金目のものを持っている商人ばかりではなかった。フロムボルクとメルザク (1) という町をつなぐ街道で聖職者2名が盗賊に誘拐される事件もあった。幸い2人は身代金と引き換えに解放されたが、教会に仕える尊い聖職者までが強盗に狙われるなど世も末だと人々は震え上がった。  ヴァルミアの町の役人が盗賊を追ってゆくと、奇妙な事に、盗賊は決まって騎士団国に逃げ込んだ。盗賊をひっ捕まえて刑に処そうとすると、今度は、騎士団国の住民だという理由で騎士団長が釈放するよう要求し、刑を執行することもままならなかった。  盗賊の悪事はエスカレートし、1517年の夏頃には馬に乗った大強盗団が大っぴらに町や村を襲撃するようになった。ある時は百騎の馬に乗った大強盗団がやってきて50箇所もの小麦倉庫や馬屋に放火、道中の村や貴族の館にも火を放ち、後には無惨な焼け野原が残った。 写真:ドイツ騎士団長アルブレヒト・ホーレンツォレルン  盗賊を背後で操っていたのは、ドイツ騎士団長アルブレヒト・ホーレンツォレルン だった。アルブレヒトは、ブランデンブルグ公を父にポーランド王の姉を母に持つ高貴な生まれで、1511年に20歳の若さで騎士団長に就任した。ポーランド王家の血縁だったにもかかわらず、ポーランドに敵対心を燃やし、13年戦争で騎士団が失った領土を取り返すことを夢見ていた。  当時ポーランドは、モスクワ公国と戦争中で、国王ジグムント1世にはヴァルミアに兵力を回すだけの余裕がなかった。しかも騎士団に一貫して毅然とした態度をとっていたヴァセンローデ司教は1512年に亡くなり、新たに司教の座についたファビアン・ルジャンスキ は騎士団の顔色を伺う臆病者だった。司教区を思いっきり揺さぶれば、怖気付いた司教が自分に泣きついてくるに違いないとアルブレヒトは踏んでいた。  アルブレヒトは更にヴァルミアに贋金を流通させ経済を混乱させた。そればかりか、司教区南部の町オルシュティン (2) に支配人として赴任した聖職者が騎

コペルニクスの生涯を探る4  フロムボルクの手作り天体観測所 Frombork

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(写真:2019年夏のフロムボルク大聖堂。コペルニクス生誕500周年に向けて大改修工事中だった。)  2019年の夏、コペルニクスが半生を過ごし、地動説を唱えた「De revolutionibus orbium coelestium」(天球の回転)を執筆した町、フロムボルクを訪ねた。  フロムボルクはポーランドの北東の端にある、ヴィスワ湾と呼ばれるラグーンに面した田舎町だ。この町は国境の町でもあり、ここから20キロほど先にロシア連邦の飛地カリーニングラード州がある。カリーニングラード州の州都カリーニングラードは、かつてケーニヒスベルクと呼ばれ、コペルニクス時代にはドイツ騎士団国の首都があった。  フロムボルクのランドマークは何と言ってもヴィスワ湾を一望に臨む丘の上に聳えるゴシック様式の大聖堂だ。田舎町には不釣り合いと言ってもいいほどの荘厳な大聖堂で、その歴史は13世紀に遡る。14世紀にゴシック様式に改築された時には中欧でも最大規模の教会の一つだったそうだ。 大聖堂から見えるヴィスワ湾。右に行けば間も無くロシア領だ。  静かで穏やかな外見とは裏腹に、この地の歴史は波乱に満ちている。昔から繰り返し戦乱に巻き込まれ、町は何度も焼き払われている。強固な城へきに囲まれた大聖堂も1626年にスェーデン王グスタフ・アドルフ軍の手に落ち、宝物や蔵書(この中にはコペルニクスの蔵書もあった)、大聖堂の内装やパイプオルガンまで持ち去られ、内部はすっかり廃墟になってしまった。  その後大聖堂は修復されたが、18世紀後半に第1次ポーランド分割によりヴァルミアがプロイセン王国領になると司教区は廃止され、大聖堂に仕える聖職者もいなくなった。19世紀末期になり、痛みが激しい大聖堂の大改修工事が行われたが、今度は第2次大戦末期にソ連軍が侵攻し、大聖堂は軍の馬屋として使われ荒らされた。 17世紀のフロムボルクの様子を描いた版画。 フロムボルクFromborkはドイツ語ではFrauenburgだ 。  戦後ヴァルミアは再びポーランド領となり、大聖堂の復興工事が行われた。我々が訪れた時は、丁度2023年のコペルニクス生誕500周年に向けて大掛かりな改修工事が行われていた。  大聖堂内部にもところどころ足場が立っていたが、コペルニクスの肖像や、近年の調査で見つかったコペルニクスの埋葬場所などがあり、沢山の見

コペルニクスの生涯を探る3  出世か夢か? Lidzbark Warmiński

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  (イラスト:ポーランド議会の様子を描いた16世紀の絵。中央王座の人物はポーランド王アレクサンデル1世ヤゲロンチク。コペルニクスの叔父ヴァセンローデ司教はアレクサンデルの顧問を務めていた。) 学生生活を終えたコペルニクスは人生の選択に直面した...   1503年、イタリアから帰国したニコラス・コペルニクスはヴァルミア司教、叔父ルカス・ヴァセンローデ (ポーランド語Łukasz Watzenrode、ドイツ語 Lukas Watrzenrode)を訪ねた。12年間に渡る大学教育を受ける事ができたのも、ヴァルミア 司教区の聖職者というベネフィキウム(聖職録、収入付きの聖職)を得ることができたのも、この叔父のおかげだった。 イタリアで天文学に夢中になっていたニコラスが、帰国直前に教会法博士号を取得したのは叔父の恩に報いるためだった。教会法博士にこだわっていた叔父はさぞかし満足したことだろう。この学位こそ、将来の司教に相応しかったのだ。 コペルニクスの叔父ルカス・ヴァセンローデ  ヴァルミア司教は高位の聖職者であるだけではなく、直轄領を治める領主でもあった。「プリンス司教」と呼ばれたヴァルミア司教は、リズバルク・ヴァルミンスキ(Lidzbark Warmiński)という土地にある優雅な城に住み、○○公と呼ばれる小国の領主に並ぶ富と権力を持っていた。ヴァセンローデは自分が手に入れたプリンス司教の座を甥に継がせたい、と考えていたのだ。 現在のヴァルミア地方の様子。田園地帯が延々と続く。  ヴァセンローデは、帰国したニコラスを自分の秘書役兼主治医に任命し、自分の傍に置いて「司教見習い」をさせる事にした。ニコラスはヴァルミア司教区の聖職者だったので、本来であればフロンボルク大聖堂に仕えなければならなかった。だが、プリンス司教の決定に反対する者などいるはずもない。ニコラスも恩人である叔父の意思に従うしかない。イタリアで好きなだけ天文学に熱中する学生生活を満喫していたニコラス・コペルニクスは、リズバルク・ヴァルミンスキの城住み込み、気難しい叔父と四六時中行動を共にする毎日を送る事になった。 19世紀に描かれたリズバルク・ヴァルミンスキ ( ドイツ語Heilsberg) 城 コペルニクス、ポーランド王の宮廷に出向く (注1)   コペルニクスが、叔父ルカス・ヴァセンローデの秘書役兼

コペルニクスの生涯を探る2 花の中世大学生 Kraków, Bologna, Padua, Ferrara

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  (写真:15世紀にから続くヤゲロー大学校舎コレギウム・マイウス) 叔父の支援でクラクフの大学に進んだコペルニクス。法律学を学ぶために次にイタリア留学に送り出されたが、叔父の期待と天文学への情熱の板挟みに... エリートを育成した中世の大学  1491年、18歳のニコラス・コペルニクスは兄(弟という説もある)と共に当時アカデミア・クラコフスカと呼ばれていたクラクフのヤゲロー大学に入学した。この時代は義務教育もなかった。大学まで進めるのは、貴族や裕福な町人の子弟と決まっていた。商家生まれのコペルニクス兄弟の場合は、子供時代に父を失っていたが、叔父ルカス・ヴァッセンローデという強力なスポンサーが付いていた。  中世ヨーロッパでは1088年にボローニャ大学が創立されて以来、イタリア、フランス、英国を中心に次々と大学が設立された。有名なパリ大学やオックスフォードやケンブリッジ大学も中世にオリジンを持っている。この時代に大学教育が広がった背景の一つに教会や宮廷、商業都市などで高等教育を受けた知識人の需要が一気に増えたという「求人」事情があった。学業に優れた若者であれば、貴族の出身でなくとも大学教育を受ける事により出世のチャンスが掴めた。コペルニクスの叔父ヴァッセンローデも町人階級の出だったが、アカデミア・クラコフスカで学び、ボローニャ大学で博士号を取得し、ヴァルミア司教という高い位についた。 コレギウム・マイウス。現在は大学博物館になっている。  15世紀は中世ヤゲロー大学の最盛期だった。世紀初頭にはスタニスワフ・スカルビミエジュ(1360年−1431年、ポーランド名語:Stanisław Skarbimierz  ラテン語名:Stanislaus de Scarbimiria)や、パーヴェウ・ヴウォトゥコヴィッツ(1370年頃―1435年、ポーランド語名:Paweł Włotkowic  ラテン語名:Paulus Vladimiri)ら近代国際法や人権思想の先駆者として知られた学者が教鞭を取った。コペルニクス時代(15世紀末)になると数学や天文学の分野で高い評価を得ており、ポーランド人学生に加え、近隣のハンガリーやチェコ、ドイツ各地から来る(今流に言えば)留学生の割合もかなり大きかった。 中世の大学で使われていた言葉は?  それなら留学生は(私が初めてポーランドに行った時

中世から続くジンジャーブレッドの里トルン Toruń

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 コペルニクスが生まれた町トルンの名物といえば、ポーランド語でピェルニク(piernik, 複数形はpierniki)と呼ばれるジンジャーブレッドだ。町のあちこちに専門店があり、コペルニクスやナポレオン、そしてフレデリック・ショパンもヨハネ・パウロ2世も大好きだったというピェルニクを求める人達で賑わっている。 (上の写真: トルンのジンジャーブレッドの老舗コペルニク(コペルニクス)、下:店内の様子。壁に展示されたハート型のジンジャーブレッドには「心を込めて250年間焼いてます」と書かれている。)  トルンのピェルニクの歴史は長い。古くは1380年にニクロス・チャン(Niclos Czan)という職人がピェルニクを焼いたという記録が残っているそうだ。  ピェルニク独特の味は地元の蜂蜜とエキゾチックなスパイスの微妙なバランスで生まれる。ピェルニクに使われる胡椒、シナモン、ナツメグ、生姜、クローブ、カルダモン、アニシード… などは、かつては中近東やインド、東南アジアから輸入される超高級スパイスだった。贅沢な素材を使ったピェルニクは、交易都市として繁栄したトルンならではの超高級お菓子だったのだ。  トルンの博物館には、数百年前のピェルニクの型が展示されている。町の紋章や人物像、馬車や天使など、いずれも繊細にして複雑でとても美しい。昔はこんな洒落たデザインの型を使って、職人が一つ一つ腕を振るって丁寧にピェルニクを作っていたのだろう。 コペルニクス通りでジンジャーブレッド店の看板を見つけた。  ピェルニクも時代とともに工場生産されるようになり、19世紀には日本にも輸出されていたそうだ。  現在、トルンのピェルニクは世界各地に出回っているそうなので、機会があれば是非お試しください。 リンク:  コペルニクスの生涯を探る 誕生の町トルン

コペルニクスの生涯を探る1  誕生の地トルン ポーランド史を変えた町人反乱の舞台 Toruń

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地動説を唱えた天文学者ニコラス・コペルニクスは2023年2月19日に生誕550年を迎えた。コペルニクス誕生の地トルンは、ポーランド史を大転換させたた町人反乱の舞台だった。 赤煉瓦の建物がコペルニクスの生家 解体された城の謎  整然としたゴシック建築の街並みが残るトルンには、今でもコペルニクス一家が住んでいた赤煉瓦の商家が保存されている。中は博物館になっており、当時の生活などんに想像を巡らすことができる。  コペルニクス家を出て古い町を散策していると立派な城壁に突き当たった。城はあるかと城壁の内側を覗いてみたが、城の土台のような瓦礫が剥き出しになっているだけだった。重要歴史的建造物なら大抵なんでも元通りに再建してしまうポーランドにしては珍しい事だと思ったのだが、これには理由があった。  トルンの城跡 を上空から見ると... (CC BY-SA 4.0, Author Kasa Fue)  トルンがある北部ポーランドは昔からポーランド語ではPrusy (プルシ)、ドイツ語ではPreußen(プロイセン)と呼ばれていた。その昔、バルト海系の原住民プロイセン族が住んでいたのだが、13世紀にマゾフシェ公コンラッド というポーランドの王族がドイツ騎士団 (1) を招き原住民を征服させた。  騎士団はその後、プロイセンに居座ったので、ポーランドと所有権を巡り争いになった。しかし、当時のポーランドには圧倒的な軍事力を誇る騎士団を追い出す力はなかった。そればかりか、バルト海の交易都市グダンスクまで騎士団に乗っ取られてしまった。  騎士団は各地に新しい町を興し、ドイツ人移民を優遇したのでドイツ系の住民が増えた。コペルニクス縁のトルンやフロムボルクも騎士団時代に開かれた町だった。  騎士団国にはドイツからやってきた商人や職人が移り住み、商業も発展した。だが、やがて騎士団と住民の間に亀裂ができた。十字軍である騎士団にとって、戦は生きる道だったが、住人にとって戦争ほど迷惑なものはない。  騎士団国の状況は、1410年7月10日にグルンヴァルドの戦い (2) で騎士団がポーランド・リトアニア連合軍に大敗すると一層悪化した。騎士団は、和平条約に反して裏切り者とみなした貴族を処刑し、ポーランドの勝利を喜んだグダンスクの有力者を暗殺して人々に憎まれた。 (3) ポーランドに巨額の賠償金を課せられたた