頭骸骨堂と藁の教会ー30年戦争が残した教訓と希望 Kudowa-Zdrój, Świdnica, POLAND

 

(写真:クドーヴァ・ズドルイの骸骨堂 Skulls Chapel in Kudowa-Zdrój, author Merlin, the Creative Commons Attribution 3.0 Unported license

 ポーランドの西隣にかつて通称「帝国」と呼ばれた国があった。800年に発足した時の正式名称は「神聖ローマ帝国」だったが、1512年に「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」と名称は変更された。その名の通りこの「帝国」の住民の多くはドイツ民族だった。

 神聖ローマ帝国は一つの国家ではなかった。複数の公国や自治権を持つ町の集合体で、ブランデンブルグやザクセンなど選挙公と呼ばれる7公が帝国の頂点に立つ皇帝を選んだ 。800年に即位した初代皇帝シャルルマーニュ(1) 以来、中世ヨーロッパの名だたる王家が皇帝の座を占めたが、15世紀以降は数世紀に渡り政治的立場をがっしり固めたハプスブルグ家が皇帝の座を独占した。

 17世紀にこの帝国を舞台にヨーロッパ最大の大戦乱が起きた。1618年始まったこの戦争で帝国の至る所が戦場と化し何百万人もの死者を出した(2) 。この戦は30年間続いたので「30年戦争」と呼ばれている。

 ポーランド南西部チェコ国境付近にクドーヴァ・ズドルイ(3)という町がある。かつて「帝国」の一部であったこの山岳地帯は、体に効くと言われる湧き水が出るため、中世から湯治場として発展した。今でもリゾートやスパ施設が点在しており、1921年に英国政治家ウインストン・チャーチル(4)が滞在した館も残っている。

チャーチルが滞在した館。現在はサナトリウム。

 クドーヴァの町外れに頭蓋骨聖堂と呼ばれるチャペルがある。外回りはかわいいチャペルだが、中に一歩入ると壁も天井も頭蓋骨で覆われ床下も骨だらけでギョッとする。数万体もあるという人骨は、18世紀にバツワフ・トマシェック(5) というチェコ人神父が墓掘り人と一緒にクドーバ周辺で集めたものだそうなのだが、地面を浅く掘っただけでざくざく人骨が出てきた。ほとんどが30年戦争の戦死者とその時流行った疫病で死んだ人たちのものだそうだ。案内の神父さんが聖壇に置かれた頭蓋骨を手にとって「これはスカンジナビア系」、「これはモンゴル系」、「これは流行病に罹患した人」と説明する。「死ねば皆同じです。骸骨になるのです。」手柄を立てようとやってきた兵士も、戦勝品目当ての雇兵も、流行病の犠牲者も、最後には死んで朽ちるだけなのだ。無数の骸骨に囲まれてそう言われるとなんとも説得力がある。

頭蓋骨堂の外見。内部は撮影禁止。

 クドーバ周辺に夥しい人骨を残した30年戦争の発端は宗教紛争だった。神聖ローマ帝国の宗教をカトリックに統一しようとした皇帝に対し、プロテスタント住民が反発し争いが始まった。だが、争いはいつしかハプスブルグ皇帝VSフランス王(双方カトリック君主だ)の覇権争いの様相を帯びて行った。戦場になった場所に住む人には迷惑な話だが、帝国各地で凄惨な戦いが繰り広げられた。この戦争を利用して領土を拡大しようと戦いに加わった君主もいた。それまでヨーロッパの二流国だったスェーデンなどは、プロテスタント支援の大命を掲げて神聖ローマ帝国の奥深くまで軍隊を進め、一躍ヨーロッパ政治の表舞台のプレイヤーにのし上がった。
1648年、30年戦争が終わった。戦争で得した王様もいれば損した王様もいたが、王様達は兵士を連れて自分の城に引き上げた。後には吹きさらしの死体が残り、やがて朽ち果て土に覆われた。

シヴィドニッツァの平和教会

 クドーバから80キロほど離れたシヴィドニッツァ(6) という町に「平和教会」という教会がある。教会はかつての町外れにあり、敷地は塀で囲まれている。教会の建物は、この辺りでは珍しい黒い木材と白の漆喰で、遠目には古い倉庫のようで教会らしい塔や十字架もない。だが、一歩中に入ると7500名収容の大礼拝堂がある。我々が訪れた時にはまだ一部で改修作業が行われていたが、たちまち木造独特の暖かさに包まれた。見事な装飾が施された祭壇や巨大なパイプオルガンなどは手入れが行き届き、350年余りの時が経ったとは思えなかった。



 この教会は、30年戦争が終結した1648年に結ばれたウエストフェリア和平条約により、この地方に建設が許可された3つのプロテスタント教会の一つだった。戦争中、プロテスタントは殺されたり、改宗を強制されたりと散々な目にあったが、神聖ローマ皇帝といえども根こそぎプロテスタントを排除することはできなかった。礼拝堂の壁には古い肖像画がかかっていた。かつてこの教会に通った信者なのだろう。何世紀も前の人が強い表情でこちらを見つめて「私が何を信じるかは私の心が決める事よ」とでも言たげだった。


 いくらウエストファリア条約で決まったとは言え、皇帝にはプロテスタント教会の建設を許可するのは面白くなかった。そこで「教会は町の城壁外に建てよ。木材、砂、藁、漆喰など消耗する材料のみ使用を許可する。塔や鐘楼の建設は禁止、変則的な形の建物でなければならない。1年以内に建設を終了させよ。」と無理難題をつきつけた。これなら教会建設を諦めるか、たとえ完成しても粗悪な建設材料だから直ぐ火がついて燃えるか、すぐに使い物にならなくなるだろうと皇帝は思ったのだ。だが、皇帝の期待に反して信者はもくもくと条件通りの教会を期限以内に完成させた。そればかりか、平和教会はしぶとく生き残った。

 19世紀初頭、神聖ローマ帝国はナポレオンにより解体され、ハプスブルグ王朝も第一次大戦で崩壊した。
 第2次大戦が終わり、英・米・ソ連の合意でポーランドの国境が西に移った。ドイツのシュベイドニッツはポーランドのシヴィドニッツァになり、プロテスタントのドイツ人住民が去り、ソ連が併合した東部ポーランドを追われたポーランド人が移り住んだ。
 ポーランド人のほとんどはカトリックだったので、それまで何千人もの信者が集まった平和教会のミサに来る人も数えるほどになってしまった。
 だが、教会は住民に守られ生きながらえた。今でも毎日曜10時になると近郷から集まるプロテスタント信者のためのミサが取り行われている。

平和教会はこの門を入った奥にある。


(1)シャルルマーニュ Chaelemagne またはカール大帝
(2)30年戦争の死者は450万人から800万人と言われている。
(3)Kudowa-Zdrój , ドイツ語:Bad Kudowa, チェコ語: Chudoba, 1742年まではボヘミア王国、後プロイセン王国、ドイツ
(4)Sir Winston Churchill (1874-1965) 英国首相(1940−45,1951−55)
(5)Václav Tomášek
(6)Świdnica, ドイツ語:Schweidnitz, チェコ語:Svídnice     11世紀にポーランドの町として創設された。14世紀末からボヘミア王国、16世紀からハプスブルグ支配下、18世紀からプロイセン王国、1871年ドイツ統一後ドイツ帝国の一部となり、第一次大戦後はドイツ。第2次大戦後ポーランドに。

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