世界最大の金塊を掘り起こした2人の男の話 Hill End, NSW, Australia
ゴールドラッシュの町ヒル・エンド
19世紀後半のオーストラリアはゴールドラッシュの真最中だった。カリフォルニアに続きオーストリア東部でも金が出たと言うニュースは瞬く間に世界中に広がり、一攫千金を狙う男どもがゴールドフィールドに押し寄せたのだ。
金が出たのは内陸地だ。それまで移植民などが寄り付かなかった大陸内地に雨後のタケノコ如くにわか作りの町ができたが、金を掘り尽くしてしまうとそのほとんどは自然消滅した。
シドニーから北西約280キロ地点にあるヒル・エンドもそんな町の一つだ。かつて世界最大の金塊が見つかり、金鉱町として大いに栄えたが、今は町というほどの場所でもない。
シドニーの自宅を出て西に向かい、ブルー・マウンテンを超えて鉱山町バサストから北上する。この辺りまで来るとユーカリのブッシュの中の細道が続き、対向車もほとんどない。ところどころにコアラ表示があったところ見ると、コアラが時々出現するのだろう。
町に入る街道には立派な並木がある。 |
ヒル・エンドはその名の通り、坂の上の行き止まりにある。ヒル・エンドに到着するとこの辺りでは珍しい立派な並木道に迎えられる。ベイヤース通りと名付けられた青々と生い茂った並木道を通り過ぎたところに宿の看板が見えた。
ヒル・エンドのロイヤル・ホテル |
1872年創業のロイヤル・ホテルはヒル・エンドに残る数少ない建物の一つだ。名前こそ優雅だが要は古いパブだ。地上階のパブで鍵を受け取り2階の部屋に行った。ベッドとテーブルがあるだけの簡素な部屋で、歩くと床がギシギシと音を立てる。バス・トイレは共有だが、他には泊まり客などいないようで静かだった。
閑散としたヒル・エンド |
ヒル・エンドは19世紀の最盛期には人口8千人ほどで、町には5つの銀行、8つの教会、パブは26軒もあったというが、今はほとんど何も残っていない。だが、空き地には昔そこにあった家や商店の写真が展示されている。写真を覗くと住民らしき人達の姿もあり、昔はこんな感じの所だったのかと想像できる。
この記録写真を撮ったのはヘンリー・メルリン(1) という写真家だ。英国生まれのメルリンは1848年に18歳でオーストラリアに移住し、人形芝居や劇場の興行師や俳優として各地を渡り歩いていたが、写真家に転向、町から町を渡り歩き、一軒一軒の写真を撮って希望者にプリント写真を販売するビジネスをしていた。メルリンが訪問先で撮影した金鉱や風景写真などはシドニーなどの新聞に掲載され、シドニーで開催された植民地博覧会などにも展示された。
メルリンがヒル・エンドに滞在していた1872年10月19日、近郊のホークス・ヒル金鉱で高さ144.8センチ、横66センチもある世界最大級の大金塊が見つかった。メルリンの写真に収まった金塊は、現在の相場に換算すると620万豪ドル(およそ6億2千万円)ほどの高額で売却され、ベイヤース(2)とホルテルマン(3) という2人の鉱山大株主は一夜にして億万長者になった。
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ロイヤル・ホテルで見たホルテルマンの「命を守る一滴」ポスター |
商売っ気があったホルテルマンはメルリンに頼み、自分と金塊の合成写真を作ってもらった。後年ホルテルマンは、「どんな病にも効く水」という触れ込みの「命を守る一滴」なる商品を売り始めたのだが、宣伝広告の真ん中にもこの合成写真を入れた。世界一の金塊を掘り当てたホルテルマンは当時のセレブにしてインフルエンサーだった。「命を守る一滴」の効き目は疑わしいが、宣伝効果は大きかっただろう。
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1872年のヒル・エンドの様子。写真:メルリン、NSW州立図書館蔵 |
ベルンハート・ホルテルマンとルイス・ベイヤースが出会ったのは1858年、大金塊採掘の14年前の事だ。ホルテルマンは徴兵を逃れるため故郷プロイセン王国ハンブルグを後にしてオーストラリアにやって来た。20歳のホルテルマンがシドニーのキング・ストリートにあったハンブルグ・ホテルで働いていた時、ベイヤースがホテルに泊まった。ドイツ語を話す二人はすっかり意気投合し、ホルテルマンはベイヤースに誘われゴールド・ラッシュで沸くヒル・エンドに一緒に行くことにした。ポーランドのポズナン生まれのベイヤースはまだ18歳だったが、すでに数年間各地のゴールドフィールドで経験を積んでいた。金探しに惹かれたベイヤースは13歳で故郷を離れ、カリフォルニアのゴールドフィールドを目指してニューヨークに行ったが、未成年の大陸横断は危険だとアメリカ入国を拒まれ、シドニーにやって来た。その後、クィーンズランドやニュージーランドの金鉱で働き、金採掘権を買えるだけの資金を貯めた。いよいよヒル・エンドで一山当てようと意気込んでいた時にホルテルマンと知り合った。ホルテルマンは鉱山での経験はないが、気が利いて小回りがきく上、信頼できた。相棒にはもってこいの人物だった。
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メルリンが撮影したホーキンズ・ヒル(Hawkins Hill)の近郊の様子。ホーキンズ・ヒルには24の採掘場所があり、ベイヤースとホルテルマンが採掘権を持っていたのは作者が赤く印を付けたあたりだ。NSW州図書館蔵 |
ヒル・エンドにやって来た2人は、近郊のホーキンス・ヒルの採掘権を買って金探しを始めた。金鉱生活は重労働だ。金鉱では連日24時間休日抜きで採掘作業が続けられた。信頼できる鉱夫を雇い、交代制で狭い真っ暗な穴の中で、ベイヤースの経験と勘に頼り、金が出そうな方向に向かってひたすら掘った。だが、なかなかまとまった量の金は出てこなかった。
金が順調に出なければ金鉱を続ける資金は勿論、生活費さえなくなってしまう。資金が底をつきそうになると、ホルテルマンがパブや店でアルバイトをして資金を練り出した。そして遂に7年目に大きな金脈が見つかった。
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メルリンが撮影した金塊をヒル・エンドの町中で展示する鉱夫ら。右から2人目がベイヤース、左から2人目がホルテルマン。NSW州図書館蔵 |
大金を手に入れ生活が安定した2人は、以前から思いを寄せていた人に結婚を申し込んだ。1868年2月、ホルテルマンはハリエット・エメットと、ベイヤースはハリエットの妹メリー・エメットと結婚し、親友2人は親戚同士になった。
金探しはギャンブルみたいなものだ。金が順調に出てくるうちは良いが、金はいつか掘り尽くされる。金を掘り当て金持ちになると、運営資金がかかる上、重労働を強いられる金鉱からいつ手を引くべきか…という疑問に直面する。
元々金探しが好きでヒル・エンドを心底気に入っていたベイヤースは金鉱を離れる気はなかったが、ホルテルマンはそろそろ金鉱株を手放しシドニーで商売を始めようと準備を始めていた。ホルテルマンにとっては幸運な事に、その最中にあの大金塊が出てきた。しかも大金塊を掘り起こした後からも夥しい量の金がザクザク出てきたので2人の懐には一生使いきれないほどの大金が転がり込んだ。
現在のホーキンス・ヒル |
シドニーの名士ホルテルマン
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1875年のホルテルマン邸。現在はここに私立男子校ショア(SHORE)がある。NSW州図書館蔵 |
オーストラリアでも屈指の億万長者になったホルテルマンは、迷わず鉱山株を処分しヒル・エンドを去った。商売好きのホルテルマンは目抜き通りジョージ・ストリートに商業施設を購入し、一家のためにシドニー湾を一望に見渡すラヴェンダー・ベイの高台に広い土地を購入し、高い塔のある豪華な大邸宅を建てた。
以前から写真技術に興味を持っていたホルテルマンはメルリンをシドニーに招いた。発展を続けるシドニーの様子を記録しようと、シドニー湾の大型パノラマ写真を撮る仕事を依頼したのだが、メルリンは急死してしまったため、弟子のチャールス・バイリス(4) がこの仕事を引き継ぐ事になった。
当時、パノラマ写真の作成には相当な資金と時間がかかった。ホルテルマンとバイリスは27メートルの塔の最上階に大型カメラを設置し、縦90センチ、横150センチの大型のガラスのネガに風景を映し出した。写真を引き伸ばす技術はまだ開発されておらず、大型ガラスのネガに撮影した何枚もの写真を繋げてパノラマ写真を作らなければならなかった。
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ホルテルマンとバイリスによるシドニー湾パノラマ写真。NSW州美術館蔵。 |
ホルテルマンは数年かけて完成したパノラマ写真をオーストラリアのプロモーションに役立てようと海外の博覧会に出展する事にした。1876年、ホルテルマンは家族を連れてパノラマ写真をフィラデルフィアの博覧会に展示するためアメリカに向かった。巨大なパノラマ写真はフィラデルフィアで銅賞を受賞し、1878年にはパリ万博のオーストラリア館にも展示された。
帰国したホルテルマンはセント・レオナルズ選挙区から州議会に立候補し、1882年の選挙で当選し州議会議員になった。大富豪、ビジネスマン、シドニーのパノラマ写真のスポンサー、そして政治家として華々しい晴れ舞台を歩くホルテルマンも病には勝てなかった。
政界入り3年後の1885年、47歳の誕生日に自宅で亡くなった。ホルテルマンの葬儀は盛大に執り行われ、セント・レオナルズの墓地に埋葬された。
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ホルテルマンが埋葬された聖トーマス墓地。現在、墓地は一部整理され公園になっている。(St Thomas Rest Park, Crows Nest) |
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墓地の近くにホルテルマン通りがある。かつてこのあたりはホルテルマンの所有地だった。(Holtermann Street, Crows Nest) |
鉱夫の友ベイヤース
現在のベイヤース・コテッジ。大金持ちになった後もベイヤースは好んでこの質素な家に住んだ。 |
ベイヤースは億万長者になった後もヒル・エンドに留まった。困った人には金を与え、貧しい鉱夫のために無料で食事を提供するなど、地元で慈善家として慕われたベイヤースは質素な家に住み、鉱夫の生活を向上させるためなら私財を投じることを惜しまなかった。ベイヤースは1876年に町長に選ばれ政界入りし、1877、1880、1882年と3期に渡り州議会議員、1885年から1890年までヒル・エンドの町長を務めた。
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ルイス・ベイヤース。州議会議員を務めていた時期の写真。NSW州議会蔵 |
ベイヤースがヒル・エンドで行った慈善事業の中で今でもヒル・エンドに残っているものがある。あのヒル・エンドの入り口の街道沿いの並木道だ。ベイヤースはヨーロッパから来た移民のために国で見慣れた木を植えることを思い立ち、何100本もの木樹を自費でヨーロッパから輸入した。街道沿いに植えられた木の中には気候に合わず枯れる木もあったが、代わりの木を取り寄せ、根気よく並木道を作った。木は大きな枝を伸ばし、日差しが強く暑い夏のオーストラリア内陸地に気持ちの良い木陰を作り、住民の心を和ませたに違いない。
ベイヤース通り |
だが、人々の尊敬を集め、気の知れた友人や家族に囲まれ平穏な日を送っていたベイヤースに思わぬ試練が待ち受けていた。
1883年に妻メリーを亡くしたベイヤースは1892年に息子達を連れてヨーロッパへの旅に出た。ベイヤースにとっては34年ぶりのヨーロッパだった。
ベイヤースは自分の不在中の財産管理を顧問弁護士(5) に任せていた。この弁護士がベイヤース不在中にベイヤースの全財産を盗み、雲隠れしてしまったのだ。
帰国したベイヤースは弁護士を探し回ったが、後の祭りだった。弁護士に全財産を取られたばかりか借金まで作られ、ベイヤースには残りの財産を処分して破産宣告をするしかなかった。最後に残ったヒル・エンドの質素な家を売却し、残りの借金を支払い終えた時には手元に何も残らなかった。
ベイヤース破産の話はヒル・エンド中に広がった。過去にベイヤースから資金援助を受けた人々は、金を返して欲しいと言われるのを恐れてベイヤースを避けた。ベイヤースが自腹を切って何度も援助した町議会も困窮したベイヤースに手を差し伸べようとはしなかった。
1897年2月、ベイヤースは誰に見送られることもなくヒル・エンドを立ち去った。出発にあたり、町の名士43名が30年間ヒル・エンドの発展のために尽くしたベイヤースの功績を讃える記念の証書を作ってベイヤースに贈ったのがせめてもの慰めだった。
その後、風の便りにベイヤースによく似た老人を西オーストラリアの金鉱で見た、という話が伝わってきた。
高台から見るヒル・エンド。中央の建物がロイヤル・ホテル。灰色がかった緑色のユーカリのブッシュの中に深い緑の木が並ぶベイヤース通りが見える。 |
ベイヤースの墓
ルイス・ベイヤースは1910年5月28日、西オーストラリアのマウント・モーガンズで亡くなった。69歳だった。
ヒル・エンドを後にしたベイヤースは金で賑わうマウント・モーガンズに行き、息子2人と共に金の採掘を始めたが、思うように金は見つからず、貧困の中で亡くなった。遺体はマウント・モーガンズの墓地に埋葬されたが、時とともに墓地も荒れ、墓標も朽ち果ててしまった。
ベイヤースの死から100年経った2010年、ベイヤースの墓に真新しい墓標が立てられた。墓標を作ることを思いついたのは「鉱夫の友」(6) と題したベイヤースの生涯をまとめた小冊の作者であるロレイン・パーセル さん(7)だった。パーセルさんは、ヒル・エンドの旧住民の子孫からなるヒル・エンド&タンバルーマ・グループ (8)のメンバーでもあるパーセルさんの呼びかけに、ヒル・エンド&タンバルーラ・グループは勿論、ベイヤース通りの木樹を管理しているヒル・エンド&タンバルーラ・プログレス・アソシエーション(9) そしてホーキンス・ヒルで金採掘事業を行っていた(2010年時点)ヒル・エンド・ゴールド・リミテド社(10) が協力し、墓標が完成した。
いつでも困った住民に手を差し伸べたベイヤースの事を、1世紀後になってもヒル・エンドに生きた人々の子孫は覚えていたのだ。
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パーセルさんの小冊。左が表紙、裏表紙に掲載された真新しいベイヤースの墓標の写真。 |
(1)Henry Beaufoy Merlin (1830–1873)
(2)Ludwig Hugo (Louis) Beyers(1840-1910)
(3)Bernhardt Otto Holtermann (1838-1885)
(4)Charles Bayliss (1850-1897)
(5)Andrew Hardie M’Culloch 弁護士で州議会議員でもあった。ベイヤースの財産を持ち逃げした。
(6)The Miners’ Friend, 2010, Lorraine Purcell, Hill End & Tambaroora Gathering Group
(7) Lorraine Purcell
(8)Hill End & Tambarooma Gathering Group
(9)Hill End & Tambaroora Progress Association
(10)Hill End Gold Limited
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