ミュシャの「クオ・ヴァディス」堺絨毯を訪ねて 続編 - もう一人のシェンキェヴィッチ - Paris
(写真:パリ、賑やかなシャンゼリゼ通り 2023年5月)
ミュシャに絵画「クオ・ヴァディス」を注文した人物シャルル・シェンキエヴィッチは、果たして本当にノーベル賞作家ヘンリク・シェンキェヴィッチの甥だったのだろうか?この疑問を解こうとポーランド、オブレンゴレック(Oblęgorek)の旧シェンキェヴィッチ邸にあるヘンリク・シェンキェヴィッチ博物館に問い合わせてから3週間たった。催促メールも出したのだが未だ音沙汰なしだ。返事を期待するのを諦め、以前から気になっていた「もう一人のシェンキェヴィッチ」を追ってみることにした。
カロル・シェンキェヴィッチ(パブリック・ドメイン) |
亡命者シェンキェヴィッチ
もう一人のシェンキェヴィッチは、カロル・シェンキェヴィッチ(1) という。この人は半生を亡命先のパリで過ごしている。この人に遭遇したのは「中欧の不死鳥 ポーランド不屈の1000年史」(2) を執筆していた時だ。「革命のエチュード」と題した章で、1830年にポーランドで起きた11月蜂起とその顛末をフレデリック・ショパンの生涯に絡めて書いたのだが、この章の登場人物でポーランド政界の重鎮アダム・イェージー・チャルトリスキ公爵 (3)について調べている時にこの人が出てきたのだ。
カロル・シェンキエヴィッチ(以下カロル)は、チャルトリスキ公爵の側近で、詩人・作家・歴史家・翻訳家と多才な人だった。「クオ・ヴァディス」の作家ヘンリク・シェンキェビッチの血縁という説もあるが、詳しくは分からない。
ホテル・ランベール Hôtel Lambert (パブリック・ドメイン) |
カロルは、蜂起中にロシア皇帝に命を狙われたチャルトリスキ公爵と共にフランスに亡命した。公爵はパリのサン・ルイ島にある館ホテル・ランベール(4) に居を構え、そのサロンには多くの亡命ポーランド人が集まった。その中にはフレデリック・ショパン や国民詩人アダム・ミツキェヴィッチらもいた。
蜂起敗北後のポーランド本国では、ロシア帝国によるポーランド文化抑圧が続いていた。そんな中、ホテル・ランベールはポーランド文化の中心地の役割を負うようになり、カロルはそこで貴重なポーランドの蔵書を収集したポーランド図書館の設立に関わるなどポーランド文化の保存に尽力した。
ホテル・ランベールの舞踏会で演奏するショパン(パブリック・ドメイン) |
カロル・シェンキェヴィッチはショパンやミツキェヴィッチをはじめとした有名亡命ポーランド人の影で知名度が低いが、カロルが歌詞を翻訳した「ワルシャビャンカ1831年 (5)」という歌はポーランド人なら誰でも知っている。今でもポーランドの国家式典などでよく演奏され、昨日(2025年8月6日)ワルシャワで行われた新ポーランド大統領の就任式典でもこの歌が出てきた。
カロルはパリで1860年に亡くなったが、シャルルがカロルの子孫だった、という可能性はあるだろうか?ポーランド語のカロルKarolはフランス語ではシャルルCharlesだ。ヨーロッパでは子供に先祖の名前をつけるのは珍しいことではない。ファーストネームが同じというのは単なる偶然かもしれないが、もしかして… などと思いながらカロルの子孫を探してみることにした。
とは言え、シドニーの自宅のデスク上でできる事といえばネット探ししかない。まずは定番のウィキペディアを当たってみることにした。まずは英語版を見たが、カルロ・シェンキェヴィッチに関するページはなかった。次にポーランド語版(6) を見ると、ここにはカロルの活動内容や文筆作品等についての情報が数多く掲載されていたが家族情報はなかった。その次に見たフランス語版(7)には家族情報があった!カロルには三人の息子がいたのだ。
カロルの長男ロベルト(Robert, 1826-86) はイタリア軍大佐で、ポーランドで1863年に起きた1月蜂起に参加している。子供がいたという記録はなかった。次男ヴワディスワフ・アルトゥル(Władysław Artur 1834-96) は銀行家で社会活動家でもあった。この人にはカロリーナ という娘がいた。三男ジョゼフ・アダム(Joseph Adam, 1836-98) はフランスの外交官で、フランス語版ウィキペディアに個別のページがあった。ジョゼフ・アダムは法学部出身で外務省に入省、エルサレム、香港、マルタ、アレキサンドリア、ベイルート、エジプトで領事を歴任した後、1883年にフランス共和国特命全権公使として東京に赴任している(8) !
ジョゼフ・アダムは日本と西欧諸国との間の条約改正交渉にフランス人として初めて参加するなどの活躍が評価され、1888年にレジオンドヌール勲章オフィシエを授与された。思いがけない日本関係者の登場で心が躍ったが、肝心の家族情報は掲載されていなかった。
ここで一つ気になった。堺アルフォンス・ミュシャ館で紹介されていたシャルル・シェンキェヴィッチに関わる新聞記事の中に、金を無駄遣いするシャルルに財産管理人をつける裁判についての記事 があった。それによると、訴えを起こしたシェンキェヴィッチ家の訴訟人はマダム・オデロ 、旧姓ジュリ・キャロリン・シェンキェヴィッチ(Julie-Caroline Sienkiewicz)だった(9)。フランス語のキャロリンCarolineをポーランド語にするとカロリーナKarolinaだ。カロルの次男ヴワディスワフ・アルトゥルの娘の名前もカロリーナだ。この二人は同一人物ではないだろうか?もしかするとシャルルはカロリーナの弟だったのではないか?これでシャルルの正体に行き着いた!と、喜んだが… 読みは完全に外れていた。
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アンジェイ・ボホモレッツ Andrzej Bohomolec 1990-88(パブリック・ドメイン) |
カロリーナにはアンジェイ・ボホモレッツ という当時有名だった息子がいた。この人は第1次大戦中フランスで結成されたポーランド軍に加わり、1920年のボリシェビキ戦争に出征した。1933-34年にはヨットで大西洋を横断するなどの冒険家で文筆家でもあった。1937年からポーランド外務省に勤務し、1939年には上海のポーランド代理大使を務めていた。その後ヨーロッパに戻りポーランド軍に加わり北アフリカのトブルック戦で負傷、戦後はカナダに移住した。アンジェイ・ボホモレッツの父はフィリップ・ボホモレッツというポーランド人で、カロリーナ・シェンキェヴィッチと結婚し、1900年にアンジェイが生まれた。カロリーナとマダム・オデロは明らかに別人だった。
カロルの長男も次男もシャルルとは関係ないとなると、残るは三男ジョゼフ・アダムしかない。果たして在東京フランス公使ジョゼフ・アダムがシャルルの父親だった可能性はあるだろうか?
シャルルのフルネームはシャルル・ジョゼフ・スタニスラフ・シエンキェヴィッチと、名が3つある。シャルルは祖父カロル、ジョゼフが父の名に因んで付けられたのかもしれないのだが、ジョゼフ・アダムの家族情報はなかなか見当たらなかった。
しつこく探し回るうちに、家系図や墓場情報を収集しているサイトに行き着いた。そこから拾った情報からジョゼフ・アダムがロザリア・シュチェニョフスカ(10) という女性と結婚していたことがわかった。では二人の間に子供がいたのだろうか。更にネット上で調べてゆくとセイム・ヴィエルキ(Sejm-Wielk.pl)というポーランドのサイトに行き当たった。
「偉大な議会」が開催されたワルシャワ王宮 (第2次大戦中ドイツ軍に破壊されたが戦後再建された) |
「セイム」は「議会」、「ヴィエルキ」は「偉大」という意味なのだが、セイム・ヴィエルキとは1791年5月3日に近代憲法を採択したポーランド王国議会を意味する。5月3日憲法と呼ばれるこの憲法採択は、アメリカに次いで2つ目、ヨーロッパでは初の近代憲法でポーランド人の大きな誇りとなった出来事だが、採択直後にポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアの3帝国に分割され、123年間地図から抹消されるという悲劇に遭った。このサイトは5月3日憲法採択当時の議員の子孫の系図を集めて掲載しているのだが、そこにカロルとその子孫の系図があったのだ。シェンキエヴィッチ一族の先祖は議員ではなかったが、配偶者の中に議員の子孫がいたので系譜が掲載されていたのだ。
ワルシャワ王宮、議会の間。ここで5月3日憲法が採択された。 |
このサイトのおかげで、カロルの3男ジョゼフ・アダムには4人の子供がいたことがわかった。この中で注目すべきなのは1876年香港生まれの長女マリアで、この人はフロレント・オデロ(Florent Odero)と結婚している。また、1881年ベイルートで生まれの長男はカロル、つまりフランス語ではシャルルという名前なのだ!!ということは、マダム・オデロはジョゼフ・アダムの長女、そしてシャルルは長男だったのだ。
ジョゼフ・アダムは1883年に東京に赴任している。この時、幼いシャルルも同行したのだろうか?
パリのマデレーヌ大通り。 シャルルが住んでいたマルゼルブ大通りはこのすぐそばだ。 |
2人の父ジョゼフ・アダムは1898年に、母ロザリアは1903年に亡くなっている。母が亡くなった後、シャルルが遺産を散財するのを止めようと姉であるマダム・オデロが裁判所に訴えを起こしたのだろう。ただ、新聞記事に出ていたマダム・オデロの名はジュリ・キャロリンでマリアではなかった。この部分が気になるが、当時の人はいくつも名前を持っており、マリアはこの時ジュリ・キャロリンを名乗っていたのかもしれない。この辺りの事実関係を確認するためには出生記録などを調べる必要があるのだが、これは私が今できる範囲を超えている。
将来、誰かがこの先の調査をする事があったら、是非結果をお知らせ願いたい。
さて、シャルルの正体はわかったものの、シャルルが何故ヘンリク・シェンキェヴィッチの「甥」を名乗ったのかは不明だ。私には調べきれなかったが、両シェンキェヴィッチ家は遠縁なのかもしれない。若いシャルルは「甥」でも「近親者」でもなかったが、大流行作家ヘンリク・シェンキェヴィッチの縁者だということを自慢したかったのかもしれないし、シェンキェヴィッチの名前を使えばビジネスが上手く行くと思ったのかもしれない。それともヘンリクが大金持ちだと思い、親戚の縁で資金援助くらいしてくれるだろうと軽く考えていたのだろうか。また、新聞記事上で「伯爵」と呼ばれ、貴族的な優雅な若者と書かれたシャルルが仕立て屋を始めようとした動機もはっきりしない。金に無頓着な坊ちゃんが思いつきでビジネスを始めようとしたのか、それとも一儲けしなければならない理由でもあったのだろうか?
シャルルの父ジョゼフ・アダムは外交官として活躍し、パリの住まいも高級住宅が並ぶブルヴァード・マルゼルブ(11) にあった。シャルルに関する新聞記事に、シャルルがまさにこのブルヴァード・マルゼルブに500フランでアパートを借りていると書かれていた。シャルルは父が生きていた時のような生活を取り戻そうとしていたのだろうか。
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フランス公報。ジャン・ジョセフに対する年金支払い決定告知 |
1904年3月12日付けの公報に、母が亡くなり孤児になったシャルルの弟ジャン・ジョゼフ (Jean-Joseph)に対し成人するまで公的年金を支払う決定が出たという記事があった。これは国家公務員の遺児であれば当然受け取れるものだったのかもしれないが、両親が亡くなった後のシェンキェヴィッチ家はシャルルの浪費もあり、経済的には豊かではなかったのではなかろうか。この公報にジャン・ジョセフの保護者として名前が載っているイムス氏とは従姉妹の夫ジュール・エドワ・イムス(12) だろう。浪費家の兄シャルルは弟の保護者としては不適格とされたのかもしれない。
それから23年後1927年9月9日の新聞記事に、ジャン・ジョゼフの名前があった。ジャン・ジョセフが休暇で訪れていた北フランスの海岸で妻を射殺し自身も拳銃自殺した、と書かれていた(13) 。どんな事情があったのかは分からないが、ジャン・ジョゼフの生涯は平坦ではなかったようだ。
一方、裁判後のシャルルについての資料は見当たらなかった。一体どんな人生を送ったのだろうか。
ポンピドゥー・センターから見たパリ |
(1) Karol Sienkiewicz 1793-1680
(2) 出窓社、東京、2019年
(3) Adam Jerzy Czartoryski 1770-1861
(4) Hôtel Lambert
(5) Warszawianka 1831 roku 原語フランス語では La Varsovienne de 1831。作者はCasimir Delavigne
(6) https://pl.wikipedia.org/wiki/Karol_Sienkiewicz
(7) https://fr.wikipedia.org/wiki/Karol_Sienkiewicz
(8) https://fr.wikipedia.org/wiki/Joseph_Adam_Sienkiewiczには日本に赴任したのは1890年と書かれているが、フランス外務省の公式ページhttps://archivesdiplomatiques.diplomatie.gouv.fr/ark:/14366/3ghmvnlrpx62によると1883年。
(9) 特別展「ミュシャ謎の絵画」図録54ページ
(10) Rozalia Szczeniowska (1848-1903)
(11) Boulevard Malesherbes
(12) Jules Edouard Imbs, 1871-1962
(13) Le Martin 1927年9月9日
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