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コペルニクスの生涯を探る2 花の中世大学生 Kraków, Bologna, Padua, Ferrara

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  (写真:15世紀にから続くヤゲロー大学校舎コレギウム・マイウス) 叔父の支援でクラクフの大学に進んだコペルニクス。法律学を学ぶために次にイタリア留学に送り出されたが、叔父の期待と天文学への情熱の板挟みに... エリートを育成した中世の大学  1491年、18歳のニコラス・コペルニクスは兄(弟という説もある)と共に当時アカデミア・クラコフスカと呼ばれていたクラクフのヤゲロー大学に入学した。この時代は義務教育もなかった。大学まで進めるのは、貴族や裕福な町人の子弟と決まっていた。商家生まれのコペルニクス兄弟の場合は、子供時代に父を失っていたが、叔父ルカス・ヴァッセンローデという強力なスポンサーが付いていた。  中世ヨーロッパでは1088年にボローニャ大学が創立されて以来、イタリア、フランス、英国を中心に次々と大学が設立された。有名なパリ大学やオックスフォードやケンブリッジ大学も中世にオリジンを持っている。この時代に大学教育が広がった背景の一つに教会や宮廷、商業都市などで高等教育を受けた知識人の需要が一気に増えたという「求人」事情があった。学業に優れた若者であれば、貴族の出身でなくとも大学教育を受ける事により出世のチャンスが掴めた。コペルニクスの叔父ヴァッセンローデも町人階級の出だったが、アカデミア・クラコフスカで学び、ボローニャ大学で博士号を取得し、ヴァルミア司教という高い位についた。 コレギウム・マイウス。現在は大学博物館になっている。  15世紀は中世ヤゲロー大学の最盛期だった。世紀初頭にはスタニスワフ・スカルビミエジュ(1360年−1431年、ポーランド名語:Stanisław Skarbimierz  ラテン語名:Stanislaus de Scarbimiria)や、パーヴェウ・ヴウォトゥコヴィッツ(1370年頃―1435年、ポーランド語名:Paweł Włotkowic  ラテン語名:Paulus Vladimiri)ら近代国際法や人権思想の先駆者として知られた学者が教鞭を取った。コペルニクス時代(15世紀末)になると数学や天文学の分野で高い評価を得ており、ポーランド人学生に加え、近隣のハンガリーやチェコ、ドイツ各地から来る(今流に言えば)留学生の割合もかなり大きかった。 中世の大学で使われていた言葉は?  それなら留学生は(私が初めてポーランドに行った時

中世から続くジンジャーブレッドの里トルン Toruń

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 コペルニクスが生まれた町トルンの名物といえば、ポーランド語でピェルニク(piernik, 複数形はpierniki)と呼ばれるジンジャーブレッドだ。町のあちこちに専門店があり、コペルニクスやナポレオン、そしてフレデリック・ショパンもヨハネ・パウロ2世も大好きだったというピェルニクを求める人達で賑わっている。 (上の写真: トルンのジンジャーブレッドの老舗コペルニク(コペルニクス)、下:店内の様子。壁に展示されたハート型のジンジャーブレッドには「心を込めて250年間焼いてます」と書かれている。)  トルンのピェルニクの歴史は長い。古くは1380年にニクロス・チャン(Niclos Czan)という職人がピェルニクを焼いたという記録が残っているそうだ。  ピェルニク独特の味は地元の蜂蜜とエキゾチックなスパイスの微妙なバランスで生まれる。ピェルニクに使われる胡椒、シナモン、ナツメグ、生姜、クローブ、カルダモン、アニシード… などは、かつては中近東やインド、東南アジアから輸入される超高級スパイスだった。贅沢な素材を使ったピェルニクは、交易都市として繁栄したトルンならではの超高級お菓子だったのだ。  トルンの博物館には、数百年前のピェルニクの型が展示されている。町の紋章や人物像、馬車や天使など、いずれも繊細にして複雑でとても美しい。昔はこんな洒落たデザインの型を使って、職人が一つ一つ腕を振るって丁寧にピェルニクを作っていたのだろう。 コペルニクス通りでジンジャーブレッド店の看板を見つけた。  ピェルニクも時代とともに工場生産されるようになり、19世紀には日本にも輸出されていたそうだ。  現在、トルンのピェルニクは世界各地に出回っているそうなので、機会があれば是非お試しください。 リンク:  コペルニクスの生涯を探る 誕生の町トルン

コペルニクスの生涯を探る1  誕生の地トルン ポーランド史を変えた町人反乱の舞台 Toruń

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地動説を唱えた天文学者ニコラス・コペルニクスは2023年2月19日に生誕550年を迎えた。コペルニクス誕生の地トルンは、ポーランド史を大転換させたた町人反乱の舞台だった。 赤煉瓦の建物がコペルニクスの生家 解体された城の謎  整然としたゴシック建築の街並みが残るトルンには、今でもコペルニクス一家が住んでいた赤煉瓦の商家が保存されている。中は博物館になっており、当時の生活などんに想像を巡らすことができる。  コペルニクス家を出て古い町を散策していると立派な城壁に突き当たった。城はあるかと城壁の内側を覗いてみたが、城の土台のような瓦礫が剥き出しになっているだけだった。重要歴史的建造物なら大抵なんでも元通りに再建してしまうポーランドにしては珍しい事だと思ったのだが、これには理由があった。  トルンの城跡 を上空から見ると... (CC BY-SA 4.0, Author Kasa Fue)  トルンがある北部ポーランドは昔からポーランド語ではPrusy (プルシ)、ドイツ語ではPreußen(プロイセン)と呼ばれていた。その昔、バルト海系の原住民プロイセン族が住んでいたのだが、13世紀にマゾフシェ公コンラッド というポーランドの王族がドイツ騎士団 (1) を招き原住民を征服させた。  騎士団はその後、プロイセンに居座ったので、ポーランドと所有権を巡り争いになった。しかし、当時のポーランドには圧倒的な軍事力を誇る騎士団を追い出す力はなかった。そればかりか、バルト海の交易都市グダンスクまで騎士団に乗っ取られてしまった。  騎士団は各地に新しい町を興し、ドイツ人移民を優遇したのでドイツ系の住民が増えた。コペルニクス縁のトルンやフロムボルクも騎士団時代に開かれた町だった。  騎士団国にはドイツからやってきた商人や職人が移り住み、商業も発展した。だが、やがて騎士団と住民の間に亀裂ができた。十字軍である騎士団にとって、戦は生きる道だったが、住人にとって戦争ほど迷惑なものはない。  騎士団国の状況は、1410年7月10日にグルンヴァルドの戦い (2) で騎士団がポーランド・リトアニア連合軍に大敗すると一層悪化した。騎士団は、和平条約に反して裏切り者とみなした貴族を処刑し、ポーランドの勝利を喜んだグダンスクの有力者を暗殺して人々に憎まれた。 (3) ポーランドに巨額の賠償金を課せられたた