コペルニクスの生涯を探る1  誕生の地トルン ポーランド史を変えた町人反乱の舞台 Toruń, POLAND

地動説を唱えた天文学者ニコラス・コペルニクスは2023年2月19日に生誕550年を迎えた。コペルニクス誕生の地トルンは、ポーランド史を大転換させたた町人反乱の舞台だった。


赤煉瓦の建物がコペルニクスの生家

解体された城の謎

 整然としたゴシック建築の街並みが残るトルンには、今でもコペルニクス一家が住んでいた赤煉瓦の商家が保存されている。中は博物館になっており、当時の生活などんに想像を巡らすことができる。
 コペルニクス家を出て古い町を散策していると立派な城壁に突き当たった。城はあるかと城壁の内側を覗いてみたが、城の土台のような瓦礫が剥き出しになっているだけだった。重要歴史的建造物なら大抵なんでも元通りに再建してしまうポーランドにしては珍しい事だと思ったのだが、これには理由があった。 

トルンの城跡 を上空から見ると... (CC BY-SA 4.0, Author Kasa Fue)

 トルンがある北部ポーランドは昔からポーランド語ではPrusy (プルシ)、ドイツ語ではPreußen(プロイセン)と呼ばれていた。その昔、バルト海系の原住民プロイセン族が住んでいたのだが、13世紀にマゾフシェ公コンラッド というポーランドの王族がドイツ騎士団(1)を招き原住民を征服させた。
 騎士団はその後、プロイセンに居座ったので、ポーランドと所有権を巡り争いになった。しかし、当時のポーランドには圧倒的な軍事力を誇る騎士団を追い出す力はなかった。そればかりか、バルト海の交易都市グダンスクまで騎士団に乗っ取られてしまった。

 騎士団は各地に新しい町を興し、ドイツ人移民を優遇したのでドイツ系の住民が増えた。コペルニクス縁のトルンやフロムボルクも騎士団時代に開かれた町だった。



 騎士団国にはドイツからやってきた商人や職人が移り住み、商業も発展した。だが、やがて騎士団と住民の間に亀裂ができた。十字軍である騎士団にとって、戦は生きる道だったが、住人にとって戦争ほど迷惑なものはない。

 騎士団国の状況は、1410年7月10日にグルンヴァルドの戦い(2)で騎士団がポーランド・リトアニア連合軍に大敗すると一層悪化した。騎士団は、和平条約に反して裏切り者とみなした貴族を処刑し、ポーランドの勝利を喜んだグダンスクの有力者を暗殺して人々に憎まれた。(3)ポーランドに巨額の賠償金を課せられたため財政難に陥り、町や貴族にも皺寄せが来た。新たな戦争資金集めに重税をかけられた商業都市も疲弊した。

ドイツ騎士団の装束を着た若者達(マルボルク城で)

 このまま騎士団の暴走を放っておくわけにはゆかないと、1440年にトルン、グダンスク、エルブロングなどの商業都市の代表者や、地元貴族が集まりプロイセン連合を立ち上げた。連合はプロイセンの全商業都市、全町が加盟し、様々な身分の住民を代表する強力な団体になった。
 連合を警戒した騎士団は、教皇を味方につけ連合の取り潰しにかかった。連合は対抗して神聖ローマ皇帝フレデリック3世に騎士団の悪政を訴えた。だが、皇帝は下々の言い分を聞く耳など持たず、1453年12月5日、プロイセン連合を激しく批判し解散を命じた。命令に応じなければ関係者に厳しい処罰を下すと警告した。
 この判決の知らせに騎士団はそれ見た事かとせせら笑ったが、事態は思いがけない方向に急転した。絶体絶命の瀬戸際に立たされた連合代表者がトルンで秘密会議を開き、大きな賭けに出ることを決めたのだ。


トルンの皮鞄家の看板

反乱

 1454年2月4日、騎士団国全土で住民の反乱が始まった。トルンでは武器を手にした町人が騎士団城を襲い、不意を突かれた騎士団は降参、城を占拠した町人らは騎士団が2度と戻れないよう城をすっかり解体してしまった。トルン勝利の知らせは山火事のように全国に広がった。勢いに乗った反乱軍は、グダンスクや主だった町で騎士団城を乗っ取り、忽ち騎士団国のほぼ全域を掌握してしまった。2月17日には騎士団が立てこもったマルボルク の要塞城の封鎖も始まり、騎士団の手に残ったのは、このマルボルクと騎士団が傭兵を配置した北西部の町ホイニッツェ だけとなった。

 しかし、連合には喜んでいる暇はなかった。騎士団援助にドイツ本土から援軍がやって来るのは時間の問題だった。トルンに指導者が集まり、完全勝利に向けて素早く次の手を打つことが決まった。連合が考えついたのは、賢い君主にプロイセンを丸ごと差し出し、その代わりに騎士団から守ってもらおう、という案だった。君主候補が決まると、連合代表団が大急ぎでトルンを出発した。行き先はポーランド王国の首都クラクフだった。

カジメシュ4世ヤゲロンチク

 連合が新たな君主として目をつけたのは26歳にしてポーランド王国とリトアニア大公国の2カ国を治めるカジメシュ4世ヤゲロンチク だった。カジメシュはハンガリーとボヘミアの王位継承権を持つエリザベータ・ハプスブルグと結婚したばかりで、王朝の展望が大きく開けたところだった。そこに今度は連合がプロイセンを貰ってくれと嘆願にやってきた。

 カジメシュにとってプロイセン同盟の提案は魅力的だった。もし、この話がうまくゆけば、長年続いた騎士団との紛争にもピリオドを打つことができるし、バルト海へのアクセスを取りもどす事もできる。カジメシュが乗り気になっても不思議ではなかった。連合側にもカジメシュを新たな君主として迎い入れるにあたり確認したい条件があった。

 カジメシュと連合の間で2週間に渡る話し合いが行われ、1454年3月6日にカジメシュはプロイセンをポーランド王国に加える証書に署名した。カジメシュは連合が求める騎士団が導入した重税などの取り消しに合意し、現存する特権や法律を温存し、貴族には国王選挙権などポーランド貴族が持つ特権を与えた。
 こうして、ポーランドと騎士団の間で後に13年戦争と呼ばれる長い戦が始まった。


カジメシュが署名したプロイセンをポーランド王国に加える証書(複製)

戦の勝敗は金次第  リソースが決めた13年戦争の顛末

 この年の9月、カジメシュはポーランド軍を率いて騎士団の傭兵が守るホイニッツェを攻略した。ところがグルンヴァルドの戦い で名声をはせたポーランド騎士軍団は傭兵軍を前に大敗、カジメシュ自らが命からがら戦場から逃げ出す羽目になった。
 これを機に騎士団が巻き返しを図り、多数の町と要塞が騎士団側に落ちてしまった。騎士団は更に攻勢に出ようとしたのだが、何と資金が底をつき失走してしまった。
 報酬がもらえなければ傭兵はびくとも動かない。それどころかマルボルク要塞城を守っていた傭兵軍団などは、未払報酬を回収するため要塞城そのものをカジメシュに売り払ってしまうという珍事も起きた。不落城を借金の形に傭兵に取られた騎士団長は、泣く泣くマルボルクをカジメシュに明け渡すハメになった。


マルボルク城を背景に記念撮

 15世紀半ばの戦争は、傭兵を多く抱えた方が勝者だった。連合はカジメシュの戦争資金集めに奔走した。コペルニクスの祖父も多額の資金を提供した一人で、自らも兵士を引き連れて戦に加わった。カジメシュも反撃に出るため、貴族に追加で特権を与える代わりに税金を払わせ、グダンスクに大きな商業特権を与え追加資金を出させて大勢の傭兵を雇い入れた。
 町人らも進んで戦いに加わり、グダンスクやエルブロングの商人が船団を組織し、ヴィスワ湾で騎士団船団と海戦を繰り広げ見事大勝利を収めた。
 騎士団が占拠していた町も次々と落ち、1466年9月に最後まで残ったホイニッツェも降参した。

第2次トルン和平条約(Marian Jaroczyński作)

 トルンの旧市庁舎に13年戦争の和平条件を定めた第2次トルン条約調印の様子を描いた大絵画が展示されている。左手の壇上の玉座にはカジメシュの姿がある。中央にはペンを片手に実に不満げな表情をした黒十字模様の白マントを羽織ったドイツ騎士団長ルドウィク・フォン・エルリフシャウゼンの姿がある。この条約でグダンスク、トルン、エルブロング、マルボルクなど騎士団国西部と隣接するヴァルミア教会領がポーランド王国領となった。騎士団は東部プロイセンに追いやられ、以降縮小した騎士団国はポーランドの属国となった。騎士団国の新たな首都はケニヒスベルグ(4) に置かれた。

 ニコラス・コペルニクスはその7年後の1473年、まだまだ13年戦争の勝利の熱と興奮が残るトルンに生まれた。平和が続き繁栄するトルンでは、ドイツ騎士団の脅威も永遠に消えたかのようだったに違いない。だが、コペルニクスが大人になる頃、騎士団は再びポーランド領の侵略を図り、コペルニクスを悩ませることになる。

トルンの中央広場にあるコペルニクスの像。後ろの建物は旧市庁舎


(1)12世紀にパレスティナで結成された十字軍。13世紀以降はプロイセンに本拠地を置いた。
(2)中世ヨーロッパ最大規模の戦いの一つと言われ、ポーランド・リトアニア軍が大勝し、ドイツ騎士団は騎士団長始め幹部多数が戦死した。
(3)グルンヴァルドの戦い後の和平条約で、お互い「裏切り者への復讐はしない」という約束が交わされた。
(4)Königsberg、現在のカリニングラード



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