マリア・クレメンティーナの嫁入り1 波紋 Oława, Poland
(写真:プリンセス・マリア・クレメンティーナ・ソビエスカ、1719年、
国立スコットランド美術館蔵 Creative Commons CC by NC)
21世紀になってもヨーロッパ王家の結婚はニュースになるが、王様が政治の実権を握っていた時代の王家の結婚は、直接国際関係に影響を及ぼすとあり、人々の大きな関心事だった。そんな中でもマリア・クレメンティーナ・ソビエスカ(1) というポーランド王の孫娘の嫁入りほど大きな騒ぎを起こした例も珍しい。
マリア・クレメンティーナが歴史の表舞台に登場したのは1718年9月のことだ。この時、16歳のマリア・クレメンティーナは、生まれ故郷のオワヴァ(2)(ポーランド南西部、当時は神聖ローマ帝国の一部)から、婚約者が待つローマに向かって出発した。
マリア・クレメンティーナは、実家は大富豪で美人、しかもヨーロッパ各地の王家の血縁とあり求婚者は数多いた。そんな中で父ヤクブ・ソビエスキ王子(3)が選んだ相手がジェームス・ステゥアート(4)と聞き意外に思った人も多かったはずだ。
ジェームス・ステゥアートは、1688年の名誉革命で英国王位を追われたジェームス2世の長男だった。支持者の間では英国王ジェームス3世として知られていたが、これは名前だけで実態はローマ教皇の情けで対面を保っている亡命者に過ぎなかった。ジャコバイト派と呼ばれる支持者とともに英国王位奪還のチャンスを狙っていたが、そう簡単に英国王座に返り咲けるというものでもない。国際状況の変化も激しく、事実ステュアート家が数年前に亡命先フランスから追い出された事も記憶に新しかった。それなのになぜ、ヤクブ王子はジェームス・ステュアートをお気に入りの娘の婿に選んだのだろうか?
ポーランド王ヤン3世ソビエスキ像 |
マリア・クレメンティーナの祖父ヤン3世ソビエスキ(5)は、1683年のウィーン包囲戦でオスマン帝国の大軍を破り、ヨーロッパの救世主と讃えられた英雄だった。ポーランドが世襲王制だったら、ヤクブ王子はヤン3世の後を継いでポーランド王になっていたはずだ。だが、ポーランド王は貴族による選挙で選ぶ事になっており、国王の長男といえども選挙に勝たなければ国王にはなれなかった。貴族の間で人気が高かったヤクブ王子は支持者を集めて国王選に立候補したが、その頃の国王選挙は列強の縄張り争いの様相を呈しており、人気があっても選挙には勝てなかった。
国王選挙の勝利者は、フランスのルイ14世が圧倒的資金力を投じて推したプリンス・デ・コンティだった。だが、この結果に納得しなかったロシアのピョートル大帝はいち早くワルシャワに軍隊を送り込み、コンティがポーランドに到着する前に自分が推していたザクセン選挙候アウグスト(6)をポーランド王にしてしまった。
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ヤコブ・ソビエスキ王子 |
新ポーランド王アウグスト2世にとって、若くて人気のあるヤクブ王子の存在は煙ったかった。ヤクブは宮廷から追い出され、ポーランドにもいられなくなり、神聖ローマ帝国領内にあった自分の領地オワヴァの城に引っ込む羽目になった。それから間も無く北方領土戦争が起き、アウグストはポーランドに攻め込んだスェーデン王カール12世に追い出された。カール12世はヤクブを国王にしようとしたが、ヤクブはアウグストの手下に誘拐され、またもや国王になるチャンスを逃してしまった。
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オワヴァのソビエスキ家居城 Public Domain |
それから何年か経ち、ポーランドを占領していたスェーデン軍も退却し、ヤクブ王子もアウグスト2世と和解した。オワヴァで静かな毎日を送っていたヤクブの元に、チャールズ・ウォガン(7) と名乗るアイルランド貴族がやってきたのは1718年初めの事だった。
ウォガンはステゥアート王家再興を企むジャコバイト派の一人で、1715年に起きたジャコバイト反乱の参加者だった。ウォガンは、英国軍に捕えられ死刑判決を受けたが、死刑執行直前に監獄から脱走に成功、500ポンドの賞金付きのお尋ね者になったが、フランスに逃亡したという豪傑だった。ヨーロッパで主君ジェームス・ステゥアートと合流したウォガンは、ジェームス・ステゥアートの密使としてドイツ各地の宮廷を回り、主君の花嫁候補を探していた。
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アイルランド貴族チャールス・ウォガン 国立スコットランド美術館蔵 Creative Commons CC by NC |
ハンサムで社交的なウォガンはたちまちヤコブと意気投合した。ヤコブには三人の姫がいたが、花嫁候補としてウォガンの目に留まったのは、控えめだが芯の強そうなマリア・クレメンティーナだった。
もっと安穏な人生を送らせてくれそうな婿を選んだほうが良いのではないかと思うのだが、王家の人の考えは違うらしい。亡命中とはいえ、ジェームスはフランスやスペインやローマ教皇に「英国王ジェームス3世 」として認知されていた。マリア・クレメンティーナがジェームスの妃になれば名前だけとは言え「英国王妃」になる。これは上昇志向の強い王家の人にとってはたまらない魅力だった。若いマリア・クレメンティーナも、雄弁なウォガンにジェームス・ステゥアートの武勇談を吹き込まれ、王座奪還にはあなたの助けが必要なのだ、などと煽てられ、すっかりこの結婚に乗り気になってしまったのだろう。ポーランド王になり損なったヤクブがジェームスの境遇に共感しても不思議ではなかったし、ジェームスが英国王に返り咲けばヤクブの立場も一転するかもしれなかった。オワヴァで燻っていたソビエスキ一族が、再びヨーロッパ政治の重要なプレイヤーにのし上がるチャンスかもしれなかった。
結婚話はトントン拍子に進み、同年9月にマリア・クレメンティーナはお付きを連れて故郷を後にした。マリア・クレメンティーナも送り出した父ヤクブ王子もこの結婚話がすでに大きな波紋を起こしているとは想像もしなかったことだろう。
9月の北ヨーロッパの天候は清々しかった。繁々とラブレターを送ってくるジェームスに想いを馳せるマリア・クレメンティーナの心の中は、これからの人生への期待と不安が混ざっていた。順調に旅を続けた一行がオーストリアのインスブルックに差し掛かった10月3日、事件が起きた。マリア・クレメンティーナ一行の前に神聖ローマ皇帝の軍隊が現れ、マリア・クレメンティーナを逮捕してしまったのだ。
(1) Maria Clementina Sobieska (ポーランド語: Maria Klementyna Sobieska)(1702年7月18日ー 1735年1月18日)
(2) Oława (ドイツ語:Ohlau) 現在はポーランド南西部に位置するが、マリア・クレメンティーナの時代には神聖ローマ帝国内だった。
(3) ポーランド語: Jakub Ludwik Henryk Sobieski(英語: Louis Henry Sobieski)(1667年ー1737年) ポーランド王ヤン3世の長男。
(4) James Francis Edward Stuart (1688年-1766年)、支持者の間ではジェームズ3世、歴史上、老僣王Old Pretenderとも呼ばれる。
(5) ポーランド語: Jan III Sobieski (英語:John III Sobieski) ( 1629年-1696年)
(6) ポーランド語:August II Mocny (英語:Augustus II the Strong) (1670年 – 1733年)
(7) Charles Wogan (1698頃-1752頃)
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