日露戦争3 「ツシマ」の英雄ヴォウコヴィツキとカティンの森

 

(photo: 京都東福寺。日本海海戦の捕虜の多くは伏見俘虜収容所と呼ばれた複数の寺に収容された。東福寺はその中でも収容人数が最も多かった。)

 ソ連のベストセラー「ツシマ」の英雄ヴォウコヴィツキが何故ソ連の捕虜収容所に入れられることになったのか?

 そもそも、イェジー・ヴォウコヴィツキはポーランド人だった。ロシア帝国が崩壊すると、ボリシェビキを避け極東に逃れ、そこからフランスに渡った。そこで結成されたポーランド人部隊に加わりポーランドに戻った。
 ピウスツキを国家元首として独立したばかりのポーランドはボリシェビキ軍の脅威にさらされ、早くも国家存亡の危機に直面していたが、ピウスツキ指揮下のポーランド軍がボリシェビキ戦争に勝利し、しばしの平和がやってきた。

1939年4月ポーランド、カトヴィツェ、中央がヴォウコヴィツキ将軍 (Public Domain)

 ヴォウコヴィツキはポーランド陸軍で昇進し将軍になった。退役を目の前に控えた1939年9月1日、ドイツがポーランドを侵略し第2次世界大戦が勃発、同月17日には不可侵条約を結んでいたソ連が背後からポーランドを襲った。ヴォウコヴィツキを含む多くの将兵が東半分の国土を占領したソ連の捕虜になった。そして、兵士から引き離された2万人余りの将校らは、スタロベルスク、オスタシュクフ、コジェルクスの三ヶ所の施設に収容されたのだ。

 これはヴォウコヴィツキにとって2回目の捕虜生活だった。35年前、対馬沖で決死の戦闘を続けた翌日、日本海軍の追跡にあい捕虜になった。血気盛んな22歳のヴォウコヴィツキは京都の捕虜収容所から脱走し、オーストラリア行きの船に乗ろうとして捕まった。脱走を図った罪で2年の禁固刑を受けたが、6週間後にあっさり釈放された。だが、今回の捕虜生活は危険で何が起きても不思議では無かった。捕虜収容所は軍の管理下に置かれ国際規約に基づき運営されるべきなのだが、この収容所は違っていた。ここを管理しているのは軍ではなく、NKVDと呼ばれるソ連内務省人民委員会、つまりスターリンの秘密警察だった。

 ヴォウコヴィツキが収容されたコジェルスク収容所は、かつてラスプーチンも宿泊したと言われる旧修道院だった。建物は荒れ果て、壁には革命の時についたらしき銃弾の跡が生々しく残っていた。数千人の将校がここに収容されたが、その半数以上は普段は軍と関係のない医師、弁護士、判事、技術者、大学教授、文筆家、実業家、政治家などで、戦争直前に召集された予備役将校だった。将校を集めた収容所にはポーランド社会の頭脳とリーダー格の人々が集まっていた。
 捕虜収容所では、時々行われる取り調べ以外、捕虜にはやることがなかった。外部からの情報も入らず収容所の外で何が起きているのか、家族はどうしているのか、戦況がどうなっているのかもわからなかった。単調な生活を少しでも面白いものにしようと捕虜が講義を開いたり、数少ない本を回し読みしたりしたが、将来への不安と楽観的な憶測が交錯し、精神的な負担も日に日に増した。

捕虜が描いたスタロベルスク収容所の生活(ワルシャワ、カティン・ミュージアムで撮影)


 取り調べは不定期に個別に行われた。取調べ目的は将校らにはわからなかったが、NKVDはポーランド将校の中に共産主義に傾倒するソ連軍に適した人物がいないかを見極めようとしていた。
 ある日ヴォウコヴィツキが取り調べに呼ばれた。将校の大半はポーランドのパトリオットでソ連軍で使えそうな人物はほとんどいなかった。中でもヴォウコヴィツキは頑固なパトリオットとして知られていた。ヴォウコヴィツキは最もソ連軍に適さないタイプだった。
 この日の取り調べも、いつものように色々な内容の会話が続いたが、係官が突然「あなたは「ツシマ」の英雄ヴォウコヴィツキの親戚か?」と質問した。係官は「ツシマ」を愛読していたのだろう。ヴォウコヴィツキは「君の目の前にいるのがその英雄だよ」と答えた。係官は何事もなかったかのように次の質問に移ったが、この短い会話がヴォウコヴィツキの命を救うことになった。

 捕虜収容所で過ごす初めての冬が過ぎ、春が近づく頃、収容所ではもうすぐ解放されるという話で持ちきりだった。収容所では解放後に希望する行き先調査も行われ、「中立国」「ドイツ占領下のポーランド」「ソ連」の中から行き先が選べるようになっていた。中立国に行けばポーランドを解放するための戦いに加われる。当然将校のほとんどは中立国を希望した。
 それから間も無く4月1日に捕虜の輸送が始まった。数日ごとに数十人、数百人の名前が呼ばれ、荷物を手に収容所を去って行った。後に残された者はいつ自分の番が来るのか首を長くして待った。4月6日夕方にはヴォウコヴィツキと共にコジェルクスに収容されていた3名の将軍のために収容所長主催の送別会が開かれ、その翌日この3名の将軍が収容所を去った。捕虜の輸送は5月まで続けられたが、何故かヴォウコヴィツキの名前が呼ばれることはなかった。数千人が過ごしていた収容所は閑散とし、後に残ったのはほんの一握りの将校だった。
 間も無く残った捕虜も収容所から他の捕虜収容所に輸送され、そこで、他の収容所から連れてこられた将校らと合流した。2万人余りいたはずの捕虜は数百名になっていた。
 ヴォウコヴィツキらが「中立国」に行ったはずの仲間たちの運命を知ったのは、それから3年後のことだった。


将校らの遺体と一緒に発見された遺品(ワルシャワ、カティン・ミュージアムで撮影)


 1943年4月、ドイツのラジオ放送が、スモレンスク近郊で地面に埋められた3千名ほどのポーランド将校の射殺死体を発見したと発表した。「カティンの森事件」として知られる2万人余りのポーランド人捕虜殺害事件が初めて世に知られることになった。だが、スターリンはソ連の関与を否定しドイツ軍の仕業だと主張、ソ連の援助でドイツに勝利しようとしていた連合国はスターリンと口裏を合わせ、真相は闇に葬られた。

 ソ連がカティン殺害事件の主犯であったことを認めたのは事件から半世紀ほど経った1990年のことだった。


ワルシャワ旧市街地にあるカティン犠牲者の碑

 NKVDの殺害リストから外れた将校は300名ほどいた。この人達は、後日ソ連軍に加わった共産主義者や、外国大使館から強い保護要請があった人物や、ソ連がどうしても欲しい技術や知識を持った人物だったが、ヴォウコヴィツキは、いずれにも当てはまらなかった。
 ヴォウコヴィツキがカティンで射殺されなかったのは、スターリン賞を受賞した「ツシマ」の英雄だったから、と言うのが歴史家の間の定説になっている。

 イェージ・ヴォウコヴィツキは1941年8月恩赦でソ連の収容所から釈放され、ソ連各地に勾留されていたポーランド人を集めて結成されたポーランド第二軍団に加わった。第二軍団は1942年にソ連を出国、英国領パレスティナに渡り、英国軍の一翼としてイタリア戦線などヨーロッパ戦線で戦った。

 戦後、ポーランドではソ連の傀儡政権支配が始まり、第二軍団に加わった多くの人々には帰る道が閉ざされた。
 「ツシマ」の英雄ヴォウコヴィツキも、故国に帰ることなく1983年英国で亡くなった。





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