日露戦争3 「ツシマ」の英雄ヴォウコヴィツキとカティンの森
(photo: 京都東福寺。日本海海戦の捕虜の多くは伏見俘虜収容所と呼ばれた複数の寺に収容された。東福寺はその中でも収容人数が最も多かった。) ソ連のベストセラー「ツシマ」の英雄ヴォウコヴィツキが何故ソ連の捕虜収容所に入れられることになったのか? |
そもそも、イェジー・ヴォウコヴィツキはポーランド人だった。ロシア帝国が崩壊すると、ボリシェビキを避け極東に逃れ、そこからフランスに渡った。そこで結成されたポーランド人部隊に加わりポーランドに戻った。
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捕虜が描いたスタロベルスク収容所の生活(ワルシャワ、カティン・ミュージアムで撮影) |
取り調べは不定期に個別に行われた。取調べ目的は将校らにはわからなかったが、NKVDはポーランド将校の中に共産主義に傾倒するソ連軍に適した人物がいないかを見極めようとしていた。
ある日ヴォウコヴィツキが取り調べに呼ばれた。将校の大半はポーランドのパトリオットでソ連軍で使えそうな人物はほとんどいなかった。中でもヴォウコヴィツキは頑固なパトリオットとして知られていた。ヴォウコヴィツキは最もソ連軍に適さないタイプだった。
この日の取り調べも、いつものように色々な内容の会話が続いたが、係官が突然「あなたは「ツシマ」の英雄ヴォウコヴィツキの親戚か?」と質問した。係官は「ツシマ」を愛読していたのだろう。ヴォウコヴィツキは「君の目の前にいるのがその英雄だよ」と答えた。係官は何事もなかったかのように次の質問に移ったが、この短い会話がヴォウコヴィツキの命を救うことになった。
捕虜収容所で過ごす初めての冬が過ぎ、春が近づく頃、収容所ではもうすぐ解放されるという話で持ちきりだった。収容所では解放後に希望する行き先調査も行われ、「中立国」「ドイツ占領下のポーランド」「ソ連」の中から行き先が選べるようになっていた。中立国に行けばポーランドを解放するための戦いに加われる。当然将校のほとんどは中立国を希望した。
それから間も無く4月1日に捕虜の輸送が始まった。数日ごとに数十人、数百人の名前が呼ばれ、荷物を手に収容所を去って行った。後に残された者はいつ自分の番が来るのか首を長くして待った。4月6日夕方にはヴォウコヴィツキと共にコジェルクスに収容されていた3名の将軍のために収容所長主催の送別会が開かれ、その翌日この3名の将軍が収容所を去った。捕虜の輸送は5月まで続けられたが、何故かヴォウコヴィツキの名前が呼ばれることはなかった。数千人が過ごしていた収容所は閑散とし、後に残ったのはほんの一握りの将校だった。
間も無く残った捕虜も収容所から他の捕虜収容所に輸送され、そこで、他の収容所から連れてこられた将校らと合流した。2万人余りいたはずの捕虜は数百名になっていた。
ヴォウコヴィツキらが「中立国」に行ったはずの仲間たちの運命を知ったのは、それから3年後のことだった。
将校らの遺体と一緒に発見された遺品(ワルシャワ、カティン・ミュージアムで撮影) |
1943年4月、ドイツのラジオ放送が、スモレンスク近郊で地面に埋められた3千名ほどのポーランド将校の射殺死体を発見したと発表した。「カティンの森事件」として知られる2万人余りのポーランド人捕虜殺害事件が初めて世に知られることになった。だが、スターリンはソ連の関与を否定しドイツ軍の仕業だと主張、ソ連の援助でドイツに勝利しようとしていた連合国はスターリンと口裏を合わせ、真相は闇に葬られた。 ソ連がカティン殺害事件の主犯であったことを認めたのは事件から半世紀ほど経った1990年のことだった。 NKVDの殺害リストから外れた将校は300名ほどいた。この人達は、後日ソ連軍に加わった共産主義者や、外国大使館から強い保護要請があった人物や、ソ連がどうしても欲しい技術や知識を持った人物だったが、ヴォウコヴィツキは、いずれにも当てはまらなかった。 ヴォウコヴィツキがカティンで射殺されなかったのは、スターリン賞を受賞した「ツシマ」の英雄だったから、と言うのが歴史家の間の定説になっている。 イェージ・ヴォウコヴィツキは1941年8月恩赦でソ連の収容所から釈放され、ソ連各地に勾留されていたポーランド人を集めて結成されたポーランド第二軍団に加わった。第二軍団は1942年にソ連を出国、英国領パレスティナに渡り、英国軍の一翼としてイタリア戦線などヨーロッパ戦線で戦った。 戦後、ポーランドではソ連の傀儡政権支配が始まり、第二軍団に加わった多くの人々には帰る道が閉ざされた。 「ツシマ」の英雄ヴォウコヴィツキも、故国に帰ることなく1983年英国で亡くなった。 |
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