日露戦争1 松山ポーランド人俘虜収容所  Matsuyama

(Photo: 松山城)

 
久しぶりに帰国した2022年6月、四国松山に出かけた。

 第一の目的は松山に引っ越した甥の顔を見ることだったが、もう一つ松山で見たいところがあった。松山と聞くと真っ先に頭に浮かぶのは夏目漱石の「坊ちゃん」だが、この町は日露戦争との縁も深い。日露戦争時代を描いた司馬遼太郎作「坂の上の雲」の主人公、秋山兄弟の故郷であり、坂の上の雲ミュージアムもある。それに、初のロシア兵捕虜収容所があったのも松山だし、ポーランド人捕虜を集めた収容所もあった。この事は、私の著書「中欧の不死鳥、ポーランド不屈の1000年史」(出窓社、2019年)の中でも触れたのだが、この収容所があった場所を、機会あれば訪ねて見たいと思っていた。 

 日露戦争(1904-05年)という日本とロシア帝国の戦争に、どうしてポーランド兵がいたのか?と疑問を持つ人もいるかもしれないが、当時ポーランドはロシア、ドイツ、オーストリアの三国に分割占領され国自体が無かった。中でもロシア帝国はポーランドの大部分を占領しており、戦争に沢山のポーランド人が駆り出された。
 私のポーランド人の夫の祖父も日露戦争に徴兵された。私の曽祖父2人も日露戦争に出征しているので、我が家ではご先祖同士が敵味方に分かれて戦ったことになる。だが、日露戦争が夫婦喧嘩の種になることはない。と言うのはポーランド人にとってロシア帝国は母国を占領し圧政を敷く憎らしい存在であり、そんなロシアのために徴兵され極東の戦場に送り出されるなど迷惑極まりない話だったのだ。その上、小っぽけな極東の国日本がロシア帝国を破ったので、当時のポーランド人はこぞって日本贔屓になった。

 そもそも何故この松山にロシア軍捕虜を収容することになったのかは諸説あり確かな事はわからない。だが、人口3万人程度の都市にピーク時には4千人もの捕虜がいたというから、通訳や生活物資は勿論、収容施設の確保もなかなか大変だっただろう。

現在の大林寺。昔の建物は戦争で焼失した。


 捕虜収容所というと、鉄条網に囲まれたバラックなどを想像しがちだが、当時の日本の地方都市で多人数を収容できる施設といえば寺院しかなかった。日本初の捕虜収容所が置かれたのも大林寺という伊予松山藩主の菩提寺だった。勝戦が続くに連れ捕虜数も増え、松山だけでも21カ所に収容所が置かれ、終いには7万人を超える捕虜が全国各地に分散して収容される事態となった。

  ポーランド人が収容されていた寺は雲祥寺という寺で、甥が地元図書館から借りてきた松山大学編纂の「マツヤマの記憶、日露戦争100年とロシア兵捕虜」という本によると、1904年6月頃開設され、20代のポーランド人、リトアニア人兵が収容されていた。(ポーランドとリトアニアは一つの国だった歴史が長いので、一緒に収容されていても不思議ではない。)最初はロシア人兵と一緒に収容されていたが、ロシア兵と折り合いが悪かった上、日本軍勝利の知らせが伝わるたびに落胆するロシア人の横でポーランド人が大喜びしたので喧嘩が絶えなかった。丁度この頃、日本政府の招きで東京を訪問していたポーランド独立運動の指導者ユーゼフ・ピウスツキや有力政治家ロマン・ドゥモフスキの要請もあり、日本側はポーランド人をロシア人と引き離し収容することにした。

雲祥寺門

 雲祥寺のある辺りは「味酒町」と言う珍しい名で、昔は酒蔵でも並んでいたのだろうか。寺の境内で掃除をしていた人に声をかけると、建物は門以外全部空襲で焼けてしまい、捕虜が過ごした本堂も焼失してしまったという事だった。

 果たして寺の本堂のツルツルした木の床の上の生活が、椅子とベッドの生活に慣れたヨーロッパ人にとって居心地良かったかどうかはわからないが、「俘虜は博愛の心を以て取扱ふへきものとす」と定めたハーグ陸戦条約に批准して間もなかった日本は、捕虜の扱いに十分気を配っていた。前述のロマン・ドゥモフスキは1週間ほど松山に滞在し、雲祥寺で直接ポーランド人捕虜と交流し、その時の体験を帰国後「ポーランドの言葉 」という雑誌に掲載している。その中で捕虜が収容所での扱いに満足している様子や、病院での傷の手当てもきちんと行われている事などを伝えている。食事なども慣れない日本の食事を与えるのではなく、お国料理を作れるよう食材を提供していたそうで、受け入れ側が色々と気を遣っていたことがうかがえる。
雲祥寺収容所(日露戦争当時)

 とは言え、今も昔も異文化体験には笑い話がつきものだ。前述の「マツヤマの記憶」に捕虜が雲祥寺の息子に金を渡し「コニャックを買ってきてくれ」と頼んだ、という話が紹介されていた。捕虜達はたまには一杯、と思って大金を渡したのだろうが、お使いの息子は「こんにゃく」を大量に買って帰ってきた。コニャックを楽しみにしていた捕虜は、ふにゃふにゃした見たこともない物を受け取りさぞ驚いたことだろう。

続く


 

 




 

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