スパイス -「天国の香り」をめぐる貿易戦争

 


VOCの木箱

南オーストラリア州アデレードの州立美術館で面白いものを見た。17世紀に作られたという横長の大きな木箱なのだが、蓋や側面にどこかで見たことのある金属の立派な印が付いていた。中央にはV、そして左にO、右にC…さて何だったかな?と思いつつ説明書きを見たらオランダ東インド会社のロゴだった 。

オランダ東インド会社とは17世紀オランダで設立された世界初の株式会社だが、この収納箱は社員が海外拠点に行く際に持参したのだそうだ。木製の収納箱に精巧な金属のロゴ入り金具が生えて美しい。色々な角度から写真を撮っていたら、通りかかった美術館員が「これはおそらく世界初の警報システム付き収納箱だよ」と教えてくれた。相当高価なものを収納するための箱であったらしく、蓋を開けると音がする仕掛けになっていた。説明書きによると、この収納箱は地元の美術収集家グウィネット(Gwinnett)夫妻が美術館に寄付されたそうで、奥様の名前はHirokoと書かれていたので日本出身の方に違いない。

オランダ東インド会社は鎖国中の日本とも取引があり、当時銀輸出国だった日本から大量の銀を中国向けに輸出して大儲けしていた。だが、これはあくまでもサイドビジネスで、最大の収入源は、胡椒、クローブ、ナツメグ、シナモンといった東南アジア原産のスパイスだったのだ。

巨万の富を生んだスパイス貿易

今ならスパイスなど手頃な値段でいつでも手に入る。だが、かつてのヨーロッパでは東南アジア産のスパイスは希少な超高級食品だった。中世ヨーロッパの王侯貴族はたいそうなスパイス好きで、宮廷料理にはふんだんにスパイスが使われた。超高級スパイスを惜しみなく使って客人にステータスを誇示するという目的もあっただろうし、スパイスには腐りかけた肉や魚の嫌な匂いを消す効果がある… といういささか危ない事情もあったかもしれない。だが、スパイス人気を支えていたのは、なんといっても宗教的な理由だったのだそうだ。中世ヨーロッパ人は信心深かった。どこから来るのかもわからないスパイスが醸し出すエキゾチックな香は、聖書に登場するエデンの園を彷彿させた… と言うのだ。王侯貴族が競ってスパイスを買い求めたのは、天国にいる心地を味わうためだったと言われている。

15世紀初期の本「ベリー侯のとても豪華な時」(Très Riches Heures du Duc de Berry)挿画の一部。フランス王シャルル5世の弟ベリー侯爵の食卓が描かれている。
(パブリックドメイン)

中世ヨーロッパでスパイスを売って大儲けをしたのはベネツィア商人だった。小回りのきく船で地中海を自由自在に行き来したヴェネツィア商人は、エジプトのアレキサンドリアや地中海東部のバザールでアラブ人商人からスパイスを仕入れてヨーロッパで高く売り捌いていたのだが、15世紀も終わりに近づく頃になるとヴェネツィアに挑戦する者が現れた。スペインとポルトガルだ。

ポルトガルとスぺインが競った大航海時代

コルドバのホテルのロビーにスペイン王フェルディナンドと女王イザベラとその前に跪くクリストファー・コロンブスを描いた壁画があった。1486年5月コロンブスがコルドバの王宮でフェルディナンドとイザベラに謁見しインドへの航海計画への支援を願い出た時の様子を再現したものだ。

地中海と大西洋に面するイベリア半島では新型船の開発が進んでいた。地中海で使われていたヴェネツィアが得意な船足の早い小型船と、大西洋側で北ヨーロッパ交易に使われた荒波に強い商船技術を上手に組み合わせ、遠洋航海に耐えられる大型船が建造されたのだ。早速、この大型船に乗ってスパイスの宝庫インドに行こう、と言い出す冒険家が現れた。遠洋航海と言ってもまともな地図があるわけでもなく命懸けの企てだった。だが、未知の世界への好奇心とスパイス交易がもたらす大きな富の魅力に吸い寄せられ、スペインやポルトガルが支援に乗り出し、一山当てようというスポンサーも続々集まった。こうして大航海時代の幕が開き、真っ先にインド探検に出かけたのがコロンブスだった。

1492年8月、3隻からなる船団を指揮してアンダルシアのパロスを出航したコロンブスはインドを目指して西に向かった。コロンブスはインドはスペインの西にあると信じていたのだが、船団は間も無く大西洋の大海原に突入し、何日経っても陸すら見当たらなかった。食料も尽きてもうダメかと諦めかけた時にカリブ海の島に到達し、コロンブスは「アメリカ発見」という歴史に残る大きな「手がら」を立てる事になった。だが、本来の目的だったスパイスの宝庫インドに到達することはなかった。

リスボンの発見のモニュメント

一方、スペインのライバル、ポルトガルは運が良かった。コロンブスのアメリカ航海の後、スペインとポルトガルはローマ教皇アレクサンデル6世の仲介でトルデシリャス条約を結び、セネガル沖のベルデ沖諸島西部の子午線の西側で見つけた土地はスペイン領、東側はポルトガル領とする、と(勝手に)世界を山分けする約束を交わしていた。1497年にポルトガルが送り出したバスコ・ダ・ガマ率いる船団はインドを目指して東に向かった。船団はまずアフリカ沖を南下し、喜望峰を周り、次にアフリカ沖を北上した。ケニアでインド洋航海の経験をもつアラブ人船乗りを雇い入れ、この船乗りの知恵を借りたガマの船団は、4月のモンスーンに乗りインド洋横断に成功、1498年5月、スパイス貿易の中心地インドのマラバー・コーストに到達した。

リスボン、ジェロニモス修道院のバスコ・ダ・ガマの棺と私

バスコ・ダ・ガマ一行は、スパイスの匂いが漂うマラバー・コースト最大の貿易港カリクット(Calicut)に上陸した現地の支配者に表敬訪問し、早速胡椒の買い出しに出かけた。突然青白い顔のヨーロッパ人が現れ、夢中に胡椒を買い漁る様子に、地元の人達はさぞかし驚いた事だろうが、これが大きな災難の始まりだとは誰も思いもしなかっただろう。

インドへの新航路を発見したポルトガルは、ガマの航海から3年後の1500年、武装船団をマラバー・コーストに送り込んだ。ポルトガルはスパイス交易を独占し、巨万の利益を帝国作りの資金に充てるつもりだったのだ。ポルトガル船団は、カリクットや周辺の港町を次々に襲い、統治者を追い払い、アラブ商人の船を破壊し、抵抗する者を容赦無く殺害し制圧した。更にマラバーコーストの他の港も手中に収め、1503年には当時アジア随一といわれた貿易港マラッカを攻撃しこちらも占領してしまった。現在に置き換えると、突如エイリアンがやってきてシンガポール港と上海港を武力で乗っ取ってしまった… といった感じだろうか。

発見のモニュメント近くにある世界地図。ポルトガルが到達した地がわかる。
(日本の横には1541とあるが、ポルトガル船が種子島に来たのは1543年だったような...
)

こうしてポルトガルは胡椒貿易をほぼ完全に掌中に収めたのだが、これで満足するつもりはなかった。ポルトガル人が次に狙ったのは超高値が付くクローブやナツメグの原産地、マレー人が「風下の地」と呼ぶ謎の南の群島だった。

クローヴとナツメグを求めてポルトガル船3隻がインドネシア方面に南下しモルッカ諸島に到達したのは1511年のことだ。1000以上の島からなるモルッカ諸島は別名スパイス諸島と呼ばれているが、クローブやナツメグの木が生えていたのは、その中のほんの一握りの島だけだった。ポルトガル人は現地人の案内でナツメグの産地バンダ島(Banda Islands)に到達し、ナツメグをたっぷり仕入れ2隻に積み込みマラッカに送り返した。残りの一隻はクローブを求めて航海を続け、翌年、産地のテルナテ島に到着した。この頃、テナルテ島は隣接するティドーレ島と戦をしていた。フランシスコ・セラオ(Francisco Serraoこの人はマゼランの従兄弟だったと言われている)というポルトガル船の船長は、テルナテ島のスルタンに加担し、信頼を得る事に成功し、スルタンから島に小さな砦を築く許可を得て、そこから定期的にポルトガルにクローブを送るようになった。こうしてポルトガル主導の高級スパイスの直輸入が始まったのだが、ここで思わぬ事件が起きた。
マゼラン艦隊の船舶「ヴィクトリア」。フィリピンからモルッカに入った。
(パブリックドメイン)

1521年10月、スペイン船2隻がモルッカ諸島に現れたのだ。この2隻はフェルディナンド・マゼラン指揮下の艦隊の一部で、スペインから大西洋を渡って、南アメリカの南端(現在のマゼラン海峡)を通過し、太平洋を横断してフィリピンに到着(そこでマゼラン自身は原住民の争いに巻き込まれ死亡)、そこから南下してモルッカ諸島に来たのだった。スペイン船の到着は、モルッカ諸島がポルトガル領だという確証を揺るがす事になった。スペインは、マゼラン艦隊はひたすら西に航海してモルッカに到着したのだから、ここは自分達の領地だ、と主張した。これに対しポルトガルは「スペインの不法侵入だ」と反論した。モルッカを手に入れれば巨万の富が手に入るとスペインも粘ったが、最終的にはポルトガルがスペイン王に現金を支払い、体良くスペインをモルッカから追い払い、ポルトガルはスパイス貿易で大きな富を得ることができた。

だが、16世紀末になると、ポルトガルのスパイス交易の独占に挑戦する強力なライバルが現れた。冒頭に登場したVOC-オランダ東インド会社だ。

スパイスでオランダ黄金時代を築いたVOC


セントヘレナ沖を航行するVOC船団 Adam Willaerts画、1698年 
(パブリックドメイン)

VOCはポルトガルに挑戦し、両国の海軍が各地で激しくぶつかった。ポルトガルはオランダに必死に抗戦したが、ポルトガルの拠点であるモルッカ、セイロン、マラッカ、マラバーなどが次々とVOCの手に落ちてしまった。

VOCがポルトガルに勝利した背景には、いくつか要因があった。その一つはポルトガルの貿易事業がキリスト教を世界に広める事を建前にローマ教皇の後援を得た中世の尾を引いた王様のプロジェクトであったのに対し、VOCは利益のみを追う組織だった。VOCの後ろ盾であるオランダ共和国は、1581年にハプスブルグ朝スペインから独立を宣言したばかりの若い国で、国を支えていたのはプロテスタントの商人層だった。彼らは儲けるために共和国の全面的支持を得たVOCを創設し、VOCに軍隊を持たせ、商売の邪魔をする者に対して宣戦布告する権利まで持たせたのだ。しかも、オランダは造船にも工夫を凝らしていた。オランダでは船の部品の標準化が進み、効率化良く短時間で高品質の船を量産することができた。戦争や嵐で船を失っても短時間で船を補填できるのもオランダの強みだった。

西オーストラリア、フリーマントルにある沈没船博物館
沈没したオランダ船から回収された遺物(沈没船博物館)

徐々にポルトガルを追いやったVOCは、東南アジア本社をインドネシアのバタヴィア(現在のジャカルタ)に置いた。本国とバタヴィアの間をオランダ船が頻繁に行き来するようになったが、オランダ船は、ポルトガルが開いた航路は使わなかった。ポルトガル航路は喜望峰から北上しインド洋を渡ったが、オランダ船は喜望峰から真っ直ぐ東に向かい、西オーストラリア沖で方向を変え北上、バタヴィアに向かった。この新航路により航海日数が短縮され、気温が高い赤道付近の航海日数も減り、積荷や船員への負担も軽減できたという利点があった。ただ、北上する地点を間違えると、オーストラリア沖の隠れ岩や珊瑚礁などが点在する難所に突入、下手をすると座礁や沈没というリスクがあった。西オーストラリアの港町フリーマントルにある沈没船博物館に、座礁したオランダ船の残骸や遺物が展示されているが、これらの船は運悪く陸に近づき過ぎてしまったのだろう。

VOC初代総督J.P.コエン
ポルトガルを追い落としたオランダによるスパイス貿易独占は徹底していた。VOC初代総督を務めたJ.P.コエンという人物は、本国オランダで英雄と讃えられた人物だったが、VOCの利益のためなら手段を選ばず、スパイス生産者に対し過酷な管理を行なった。スパイス生産者がVOC以外と取引する事を禁じ、VOCの意向に逆らう者を容赦無く罰した。VOCの命令に従順しないナツメグ原産地バンダ島では、日本人傭兵に島民を殺させ、東アフリカから奴隷を連れて来てプランテーションで働かせた。近隣の島でスパイス栽培を試みる者もいたが、VOCが送り込んだ武装集団にスパイスの木は根こそぎ破壊された。

VOCは価格管理も徹底していた。スパイスを高値で売るため、スパイスを定期的に焼却処理し供給量を制限したのだ。VOCの管理下でスパイス価格は歴史的超高値が続き、ナツメグやクローヴの利益率は実に2000%にも上った。

1635年のVOC作東南アジア地図
(パブリックドメイン)

オランダと同時期に東南アジアを積極的に進めていた英国も、モルッカ産のスパイス貿易に割り込もうとした。オランダと争った結果、英国東インド会社はオランダから合意を取り付け、バンダ島から数百キロほど離れたアンボン島でナツメグ栽培を始めた。しかし、オランダはこれが気に入らず、英国を追い出そうと画策した。1623年にオランダ人がアンボンの英国商館を襲い、捕えた社員20名に激しい拷問を加え殺害する事件が起きた。この事件はアンボン事件として知られるようになったが、意外なことに殺害された社員の中に10名ほど日本人が混じっていた。この日本人は、商館に雇われた用心棒で、関ヶ原の戦い後、職を求めて海外に渡った浪人であったらしい。(VOCの傭兵としてバンダ島の島民を襲った日本人も浪人だったのだろう。)
この事件後も、英国とオランダの間の紛争は続いたが、最終的には1665-67年の第二次英蘭戦争の結果、英国は北アメリカのオランダ植民地ニュー・アムステルダム(後のニューヨーク)を手に入れる代わりにモルッカを諦めた。つまり、ニューヨーク誕生の裏にはスパイス争奪戦があったのだ。

真珠の耳飾りの少女 
(パブリックドメイン)
スパイス貿易を独占したオランダは黄金時代を迎えた。アムステルダムには富が集中し、裕福なパトロンを得て芸術も花咲いた。それまで絵画といえば宗教画が主流だったが、商人が大きな力を持つプロテスタントの共和国では肖像画や風景画などが好まれ、レンブラントやフェルメールといった巨匠が活躍した。フェルメールの有名な「真珠の耳飾りの少女」で使われた青の顔料はアフガニスタン産のラピスラズーリと言われている。この石もオランダ東インド会社の船でオランダの港に運ばれたのだろう。

最盛期のオランダ東インド会社は商船150隻、社員5万人、1万人規模の軍隊を持ち、ペルシャ湾、セイロン、ジャワ、日本など広範囲に拠点を置いた。あのロゴ入り収納箱も社員とともに各地に送られたに違いない。

1724年のバンダ島の様子(パブリックドメイン)

だが、やがてVOCの栄光にも影が差し始めた。18世紀半ば、オランダはインドのトラヴァンコール王朝との争いに敗れ、マラバー・コーストの支配権を失った。インドネシア産のスパイス交易は続いたが、英国、フランスという新たな強国の登場がVOCの命運を大きく左右する事になった。1780年には第4次英蘭戦争(1780−1784)が始まったが、VOCは多くの船を失い、4年間続いた戦争中は交易そのものがストップしてしまったため、大きな負債を抱え込むことになった。1795年にはオランダはフランス革命軍に侵略され、傀儡政権が発足、VOCはその4年後1799年に倒産に追い込まれた。

その後、VOCの拠点や負債などはオランダ共和国が引き継いだが、オランダがスパイス貿易で栄華を誇った時代はすでに過ぎ去っていた。19世紀東南アジア貿易の主役は織物、綿、絹、茶、コーヒーなどに移り、英国やフランスが東南アジア貿易を牛耳るようになった。
スパイスは高価品の王者の座から転落してしまったのだ。

スパイスのその後


シンガポールに立つ英国軍人スタンフォード・ラフルス像

その後、スパイスはどうなったのだろうか?

VOC没落後、スパイス貿易がなくなったわけではなかったが、スパイス人気は低迷を続けた。その理由の一つは市場の変化だった。かつて王侯貴族がスパイスをたっぷり使った料理を味わっていたヨーロッパで、新鮮な食材の味を生かした料理が好まれるようになったのだ。スパイスが効き過ぎた料理は「田舎料理」とレッテルをはられ、「高級感」を失ってしまったのだ。また、時代の変化とともに宗教観も変わり「天国に行った気分」を味わうことにこだわらなくなったのかもしれない。もう一つは生産地の拡大だ。19世紀にオランダの独占が崩れ、スパイスの生産地が広がり生産量も増えた。需要が減り供給が増えて、誰でも必要な時に手頃な値段で買えるようになったのだ。

スパイス生産地の拡大には英国とフランスが一役買っている。まずは英国だが、ナポレオン戦争中にジャワやモルッカを占領した際に、長い間オランダ人が隠し持っていたナツメグなどのスパイスの種を手にいれた。シンガポール創設者として知られる英国軍人スタンフォード・ラフルス(Sir Stamford Raffles 1781-1826) は起業家精神が旺盛で、英国植民地各地でスパイスのプランテーション作りを奨励した。気候が合わずに失敗した例もあったが、カリブ海のグレナダ諸島でナツメグがよく育ち、グレナダは今日でもナツメグの産地として知られている。

一方、クローブは現在に至るまで東アフリカで生産されているが、クローブがアフリカに最初に植えられたのは19世紀初頭だ。東アフリカ沖のザンジバル諸島の当時の支配者サイド・ビン・スルタン(Said bin Sultan)が推奨し、多くの奴隷を使いクローブ栽培が行われた。ザンジバルの気候はクローブに合っており、クローブはよく育った。クローブをザンジバルに持ち込んだのは、アラビア半島のオマンの商人というのが定説で、フランス領モーリシャスでクローブを手に入れた。では、インドネシアのモルッカにしかなかったクローヴが、なぜインド洋のモーリシャスにあったのだろうか?

ピエール・ポワヴル
その鍵を握っているのは「胡椒」という名のフランス人植物学者だ。ピエール・ポワヴル(Pierre Poivre 1719-1786、Poivreはフランス語で「胡椒」という意味)は若い時から東南アジアのスパイスに魅せられ、なんとかスパイスを手にいれフランス領で生産したいと思っていた。中国人商人がモルッカのスパイスを持ち出し、フィリピンで栽培しているという情報を聞き出したポワヴルは、ミンダナオ島などでスパイスの苗木や種を集めフランス領イル・ドゥ・フランス(現在のモーリシャス)に持ち帰ったが、栽培は成功しなかった。
1770年代にイル・ドゥ・フランス総督となったポワヴルは、スパイス探索団をモルッカに送り込み、オランダ人の目を盗んでクローブやナツメグの苗木や種を手に入れることに成功、モーリシャスや周辺の島に植えてみたが、ほとんどは枯れてしまった。だが、一部生き残った木は植物園で大切に育てられ、数年後にスパイスの実がなった。収穫したスパイスはフランスに送られ時の国王ルイ16世に献上された。スパイス量産が可能になれば財政難のフランスを救えると、「国産」スパイスに期待が高まりスパイスを迎える儀式も立派に取りおこなわれた。果たしてスパイスがヴェルサイユ宮殿のルイ16世と妃マリー・アントワネットのテーブルに登場したかどうかは定かではない。だが、フランス植民地でのスパイス栽培は商品化に至らぬままフランスは財政破綻、フランス革命が起きてルイ16世も王妃もギロチンの泡と消えてしまった。アフリカ沖のフランス植民地モーリシャスは1810年に英国海軍が占領、英国領になった。クローブがザンジバーに持ち出されたのはそれから数年後の事だった。

ナツメグ、クローヴ、胡椒 (パブリックドメイン)








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