バルト海をめぐる駆け引き 第1話 イワン雷帝の求婚

 

  
(写真:グダンスクは、かつてのバルト海最大の貿易港だった)

ロシアの挑戦            

ロシアという国は昔からバルト海に面していたように思われがちだが、ロシアがバルト海進出を果たしたのは18世紀のことだ。ロシアはそれまでバルト海への出口を求めて、繰り返しバルト海沿岸地を侵略した。雷帝と呼ばれたイワン4世などは25年という年月に渡り、繰り返しリヴォニアと呼ばれたバルト海沿岸地方に攻め入った。そのイワン雷帝の行く手に立ち憚ったのはポーランドだった。ポーランド、ロシア、そして周辺国スウェーデンやデンマークを巻き込んだこの戦は、リヴォニア戦争と呼ばれた。

リヴォニアは、現在のバルト3国の北2カ国ラトヴィアとエストニアにまたがっていた。中世にドイツ人騎士団が入植し、騎士団領として発展したが、16世紀半ばになると騎士団国は衰退した。そこを狙ったイワン雷帝は1558年にリヴォニア侵略を開始し、瞬く間に騎士団軍を打ちのめした。存亡の危機に立たされた騎士団はポーランド王ジグムント2世アウグストに保護を求めたため、リヴォニアをめぐりポーランドとモスクワの全面対決の図式が出来上がったのだ。

リヴォニアの古地図
この時代のポーランド王国は「黄金時代」と言われた繁栄期にあった。ポーランドを治めるヤゲロー王朝は、元はと言えばリトアニアの出身で、ポーランド王ジグムント2世アウグストはポーランド王とリトアニア大公を兼ねており、その支配地は現在のウクライナ、ベラルーシ、ロシア西部にまで及ぶ広大なものだった。王国の内陸にはポーランド経済を支える肥沃な農地が広がり、各地で収穫された大量の穀物がヴィスワ川を下りバルト海最大の交易都市グダンスクに運び込まれた。グダンスクにはハンザ同盟やオランダの商船が行き来し、積み込まれた穀物は西欧各地で取引されていた。

一方、長らくモンゴル帝国の支配下にあったロシアは、ヨーロッパと文化・歴史・宗教を共有することがなく、ヨーロッパとは相異なる異質な国だった。モスクワ公国の君主イワン4世は、周辺の小公国を次々と制し、歴史上初「ロシア皇帝」を名乗った人物だった。だが、ロシアが強大な帝国にのしあがるのはまだ先のことで、イワン雷帝時代のロシアはロシア内陸からヨーロッパに乗り出そうとする「新参者」だった。

ロシアがヨーロッパの中枢に進出するためにはその行く手にあるポーランドは邪魔な存在だった。イワンとジグムント・アウグスト。リヴォニアをめぐり宿敵となった二人は水と油のようだった。モンゴル皇帝の如く絶対専制を敷くロシアでは皇帝が絶対権力を持つ畏怖すべき神のような存在であったのに対し、ポーランドはシュラフタと呼ばれる貴族からなる議会が力を持つ「貴族民主主義」の国だった。絶対権力者であるイワンにとって、議会の承認がなければ国王が自らの結婚相手さえ決められないポーランドなど不可解な馬鹿げた存在だった。また、ジグムント・アウグストにとっては自分に逆らうものは誰でも躊躇せず殺すイワンは野蛮人でしかなかった。そんなモスクワのバルト海進出を許すわけにはゆかなかった。

全面対決を目前としたある日、リトアニアで戦争準備を急ぐジグムント・アウグストの元にイワンの使者が和平案を持って現れた。

雷帝の算段

モスクワ公国イワン雷帝
この機に及んでまさかの和平案だったが、ジグムント・アウグストが驚いたのはその内容だった。イワンは、ジグムント・アウグストの妹カタジーナ・ヤゲロンカを妻に迎える代わりに、リヴォニア侵略から手を引くというのだ。

なぜ、バルト海への出口を渇望しリヴォニアに執着していたイワンが、こんな和平案を持ち出したのだろう?ジグムント・アウグストの妹カタジーナは有名な美人だったが、イワンは美女に執着してバルト海進出を放り出すような人物ではない。実は、イワンは武力征服よりも遥かに賢い計画を思いついたのだ。

ポーランド王ジグムント・アウグストには40歳になっても世継ぎがいなかった。名君として知られ、見目麗しいとも言われていたが、妻運には恵まれなかった。ハプスブルク家から来た最初の妻は病弱で早世、次に周囲の猛反対を押し切って迎えた愛妻も程なく世を去ってしまった。再びハプスブルグ家から来た3人目の妻とは折り合いが悪く、子をなす余地などなかった。ポーランドの王位継承権は男子にしかなかったのだが、王家一族にはジグムント・アウグストを除けば男子が一人もいなかった。このままゆけばヤゲロー王家は確実に断絶、ポーランド王位もリトアニア大公位も空座となる運命だった。

イワンの和平案は、そんなポーランド王家のお家事情を踏まえて練り出したものだった。自分がカタジーナと結婚すれば、ヤゲロー王家の近親者としてあわよくばポーランド王位が自分の懐に転がり込んでくるかもしれない。二人の間に息子が生まれれば、その子がポーランド王位に就けるかもしれない。慌てて武力でリヴォニアの取り合いをするより、美しい王女を娶ってポーランドとリトアニアが丸ごと自分のものになるのを待った方が賢い… とイワンは算段したのだ。

ポーランド王ジグムント2世アウグスト
イワンに名指しで結婚を申し込まれたポーランド王女カタジーナ・ヤゲロンカは、ジグムント・アウグストの実妹で、先王ジグムント1世とイタリア人王妃ボナ・スフォルツァとの間に生まれた末娘だった。カタジーナの体内にはヨーロッパ屈指の名門王家の血が流れていた。そのうえ、美人の誉れが高く、幼い時から各地の宮廷から縁談話が持ち込まれた。だが、なぜか話が纏まらず、当時としては年増の30歳を超えても未婚だった。カタジーナには未婚の姉アナがいたのだが、この人は社交的もなく女性としての魅力に欠けるとの評判だったので、イワンは関心を示さなかった。

イワンの使者はカタジーナとも会見し、カタジーナが噂以上の美姫であることを確認し、面食いのイワンに後で愚痴られることもあるまいと安堵した。だが、使者には一つ腑に落ちないことがあった。謁見中、カタジーナがずっと泣いていたのだ。

カタジーナ・ヤゲロンカ
名門王家の姫君といえば、贅沢で安泰な毎日を過ごしていたかと思いがちだが、その人生は結構過酷だった。外交の道具として見知らぬ外国の権力者に嫁がなければならず、状況によっては身の安全すら保証がなかった。現にカタジーナの姉イザベラなどはハンガリー王に嫁いだものの、夫は早く亡くなり、戦乱に巻き込まれ命からがら国を追われるなど、散々な目に遭っていた。カタジーナは当然、自分の運命を理解しており、兄の命令に背くことは許されない事も重々承知していた。だが、よりによってあの残虐で野蛮な異教徒(カトリック信者にとって正教徒は異教徒だった)イワンに嫁つぐなど、あまりにも惨すぎた。だが、王女には使者を前に本心を言葉で表すことなど許されなかった。そこで涙で「私はイワンに嫁ぎたくない」と意思表示してみたのだが、偉大なるロシア皇帝の求婚を喜ばない姫などいない、と頭から信じ込んでいた使者には、カタジーナのメッセージは伝わらなかった。

ジグムント・アウグストもこの縁談に決して乗り気だったわけではなかったが、イワンの結婚申し込みを露骨に拒絶するのは得策ではなかった。そこで、一旦結婚交渉に乗る事にし、使者をモスクワに派遣し時間稼ぎする事にした。ジグムント・アウグストは早急に同盟相手を模索すべき、密使を送り出す事にした。

二人目の求婚者

16世紀のストックホルム
その頃、バルト海を挟みポーランドの北にあるスウェーデンでは国王グスタフ・ヴァーサが亡くなり、27歳の長男エリック14世が国王に即位した。内政に力を注いだグスタフと違い、新王はヨーロッパの北の小国だったスウェーデンを一流国にのし上げようと外交政策にも意欲的に取り組もうとしており、それに相応しい妃を迎えようとイングランド女王エリザベス1世に熱心に求婚していることも知られていた。

ジグムント・アウグストが密使を派遣したのは、新王誕生に湧くこのスウェーデン宮廷だった。リヴォニアの北にあるフィンランドは、当時スウェーデン領で、度々イワン雷帝の侵略に遭っていた。ジグムント・アウグストは、イワンと言う共通の敵を持つスウェーデンを味方に引き入れリヴォニア戦を優位に進めようと考えたのだ。王国同士の同盟には王家間の婚姻が付き物だった。フィンランドは、エリックの弟ヨハンがフィンランド公として治めていた。ジグムント・アウグストは同盟に当たり、ヨハンと妹カタジーナの結婚を持ちかけた。エリックはこの話に乗り、早速ヨハンを求婚のためポーランドに送る事にした。そして、自身はなかなかいい返事をくれないエリザベスの心を射止めるため、自ら大船団を率いてイングランドに乗り込む事にした。

ヨハンはエリックの3歳下の腹違いの弟だった。ヨハンはエリックと共に、王家の子弟に相応しい教育を受け育った。学問が得意で占星術などが好みのエリックに対し、ヨハンは武人肌で父王の気に入りの息子だった。20歳でフィンランド公に封じられトゥルクに本拠地を置いた。外交経験もあり、当時皇太子だったエリックの代行としてエリザベス1世に結婚申込を伝えるためロンドンに赴いたこともあった。
現在のグダンスク旧市街。繁栄時代を彷彿させる。

そのヨハンが今度は自分の結婚申込のためにバルト海を南下していた。ヨハンはフィンランドで何度もイワンの軍隊に痛い目に遭っていた。ジグムント・アウグストと組む事はフィンランドにとって意味があった。しかも、イワンはカタジーナを妃に望んでいるというではないか。イワンを出し抜きカタジーナを自分のものにできるというのも実に愉快だった。

ポーランドの最大の港町グダンスクに入港したヨハンは、グダンスクの繁栄ぶりを目の当たりにした。外国の商船がひっきりなしに寄港し、活気があふれる街の目抜き通りには豪勢な豪商の邸宅が立ち並んでいた。ポーランドの繁栄ぶりを目の当たりにしたヨハンは、ポーランドとの同盟話に益々乗り気になった。

ところが、ここで思わぬ事態が起きた。エリックからカタジーナとの結婚は中止せよとの命令が届けられたのだ。ヨハンは迷った。フィンランド公とは言え、スウェーデン王の命令に背くことは許されない。だが、ヨハンはポーランドとの同盟とカタジーナとの結婚を簡単に諦める気にもなれなかった。ヨハンは予定通り、ジグムント・アウグストが滞在するリトアニアに行く事にした。
フィンランド公ヨハン

リトアニアに到着したヨハンはジグムント・アウグストと謁見し、カタジーナと対面した。この時彼女は36歳、ヨハンより11歳年上だったが、評判通りの美貌に加え、ポーランド語、イタリア語、ラテン語を流暢に操るいかにも聡明な王女だった。ヨハンは自分の幸運を噛みしめた。ヴァーサ家は父グスタフを初代とする新興王家で、自分にはヨーロッパの権威ある王家との血のつながりなどない。そんな自分に中欧・西欧の名だたる王家の血を引くカタジーナを妻にするチャンスが巡ってきたのだ。

一方、カタジーナはこの年下の求婚者が、野蛮人ではなくラテン語も堪能な知識人であることにホッとしたに違いない。フィンランドは北欧の片田舎で、ヤゲロー家とは不釣り合いなほど貧しい公国だが、カタジーナは気にもしなかった。この結婚を断って、兄の宮廷に残りいつあのイワンに嫁入りさせられるかとビクビクして過ごすより、フィンランドに行く方がよほどましだった。しかも、ヨハンはプロテスタントだったが、カトリックのままでいたいというカタジーナの希望も受け入れてくれた。カタジーナはヨハンの求婚を受け入れる事にした。

嵐の予兆

16世紀のヴィリニュス
1562年10月4日、リトアニアの首都ヴィリニュスでヨハンとカタジーナの結婚式が盛大に執り行われた。2週間にわたる祝宴も終わり、カタジーナとヨハンがフィンランドに向かう日がやってきた。
この結婚で、ジグムント・アウグストはスウェーデンという同盟国を得、カタジーナはイワンから逃れ、ヨハンは力強い義兄を持つはずだった。だが、ジグムント・アウグストは、野心に燃えるエリックが水面下でモスクワと密かに通じようとしていのではないかと察し始めていた。狡猾なイワンがスウェーデンの若王と手を組むかどうか予測はつかなかった。だが、スウェーデンとの同盟が幻に終わり、エリックがポーランドと敵対する事態になれば、カタジーナは勿論、ヨハンの命も危うくなるかもしれない...

巷では、カタジーナの結婚に怒り狂ったイワンがフィンランドに向かうカタジーナを奪おうとリヴォニアに誘拐団を送り込んだという不吉な噂が飛び交っていた。フィンランドに向かう二人の行く手には大きな試練が待ち受けていた。



* ポーランド王女カタジーナ・ヤゲロンカ、ポーランド語: Katarzyna Jagiellonka、英語Chatherine Jagirllon、スウェーデン語: Katarina Jagellonica (1526 – 1583)
* モスクワ公国イワン雷帝、英語:Ivan IV Vasilyevich、ロシア語: Иван IV Васильевич (1530 – 1584)
* ポーランド王ジグムント2世アウグスト、ポーランド語:Zygmunt II August, 英語:Sigismund II Augustus (1520 – 1572)
* スウェーデン王エリック14世、Erik XIV又はEric XIV (1533 –  1577)
* フィンランド公ヨハン、英語:John III、スウェーデン語:Johan III (1537 – 1592)

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