バルト海をめぐる駆け引き 第2話 兄と弟

 

(スウェーデン王エリック14世)

兄エリック

リヴォニアを侵略したイワン雷帝が、ポーランド王ジグムント・アウグストにカタジーナとの結婚を条件に和平案を持ち込んでいた頃、スウェーデンでは国王グスタフ・ヴァーサが死の床についていた。グスタフは13世紀以来続いたデンマーク支配を断ち切りスウェーデンを独立させた人物だった。亡くなったグスタフに代わり王位についたのはヨハンの3歳年上の腹違いの兄エリック14世だった。グスタフはお気に入りの息子だったヨハンをエリックと共に育て、20歳のヨハンをフィンランド公に封じた。ヨハンはフィンランドに移り、そこで初めてモスクワの脅威を実感することになった。

リンク:第一話 イワン雷帝の求婚 

エリックが王位についた当時のスウェーデンは、ヨーロッパ北地の小国だった。若き新王は自国をだれもが一目置く一流国にする夢を抱いていた。そのために、ポーランドやデンマークが握るバルト海交易に食い込もうと考えた。ジグムント・アウグストとの同盟話を覆したのもその為で、ジグムント・アウグストと一戦を交える事になっても自らリヴォニアに進出するつもりだった。

イングランド女王エリザベス1世
そしてもう一つが実現しようとしたのが、イングランド女王エリザベス1世との結婚だった。スウェーデン王の権威を高めるためにも是非この結婚を実現したかった。皇太子時代にヨハンを自分の名代としてロンドンに送り込んだことはすでに書いた通りだが、エリザベスはのらりくらりと返事を先延ばしにされ、エリックはすっかり痺れをきらしていた。これ以上待てない!と、エリックは自ら英国に乗り込みエリザベスを何が何でも説得する事にした。だが、当時は国王自らが外国に求婚に行くなど前代未聞の出来事だった。当然周囲は大反対したが、頑固なエリックは聞く耳など持たなかった。直ちに大船団を組織させ、最も豪華な船に乗り込みロンドンに向けて航海を開始した。だが、エリックには運がついていなかった。大船団は出発後間もなく大嵐に遭い壊滅、エリックは命からがら陸に辿り着いた。だがそれでもロンドンに行くと言って聞かないエリックを、家来が何とか説得してストックホルムに連れ帰った。
カタジーナ・ヤゲロンカ
そんなエリックにとって、ヨハンとカタジーナ・ヤゲロンカの結婚の知らせは、自尊心を傷つけられる出来事だった。元々王家の息子たちの間には多かれ少なかれライバル意識があったのだが、結婚話が座礁したエリックには、ヨハンの妃となったカタジーナが名門中の名門の姫君であることも癪に障ったが、それにも増して国王になった自分の意思にヨハンが反したことがどうしても許せなかった。エリックを取り巻く側近にはプロテスタントが多く、ヨハンがカトリックであるポーランド王女と結婚した事をエリックへのあからさまな挑戦とみる者もいた。「フィンランド公はポーランドと手を組み、反乱を起こそうとしているのでは?」と耳打ちされ、エリックの猜疑心が膨らみ、いつの間にかエリックの意識の中のヨハンは、信頼できる弟から危険なライバルへと変容していた。この事を弟ヨハンは知るよしもなかった。

弟ヨハン

19世紀に描かれたアボ城
カタジーナは1562年12月初旬、フィンランド公の居城があるアボ(1)に入城した。アボの人口は2千人ほどと、カタジーナの故郷クラクフの10分の1ほどの小規模な町で、ヨハンの城もカタジーナが住み慣れたクラクフやヴィリニュスのルネサンス様式の豪勢な城とは比べ物にならない貧弱な建物だった。この様子を見て、カタジーナについて来た侍女達は思わず女主人の顔色を伺ったが、カタジーナは表情ひとつ変えることなく颯爽と夫の城に入っていった。この年は例年になく寒波の到来が早く、当初予定していたリガからの海路の移動が叶わず、道中は苦労続きだったが、カタジーナとヨハンの間には暖かい絆が生まれていた。

カタジーナのアボ到着から間もなく、後を追ってきた250名からなる従者や、夥しい数の家具、織物、装飾品、食器類などが到着した。カタジーナの指図で城内に運び込まれたそれらの品物のおかげで、それまで兵舎のように殺風景だった城内が忽ちイタリア・ルネサンスの香りが漂う煌びやかな空間へと生まれ変わっていった。フィンランド公結婚祝いに城を訪れた地元の貴族や有力者らは、優雅なカタジーナに感嘆し、ポーランドから持ち込まれた東洋の絨毯や銀食器、絵画、高価なイタリア製の布やシャンデリアに目を見張った。城の中ではポーランド語、フランス語、ドイツ語、イタリア語が飛び交い、美しい音楽が流れ、道化師が客人たちを笑わせた。
カタジーナの故郷クラクフ、ヴァヴェル城の中庭。2016年撮影

ヨハンは幸福の絶頂にいた。カタジーナとの優雅な毎日の様子を事細かく手紙に綴り兄エリックに送りアボに招待した。エリックの命令に背いた事には後ろめたさが残ったが、このアボの様子を見ればエリックもきっと喜んで自分の勝手を許してくれるだろう、とヨハンは信じていた。
だが、この手紙を受け取ったエリックは嫉妬と怒りで逆上した。ヨハンは国王となったエリックが短い間に自分の手のとどかない所に行ってしまった事に気がつかなかった。ヨハンの結婚問題が兄弟二人の間の諍いとして二人の間で解決されれば悲劇は起きずに済んだかもしれない。だが、エリックはヨハンの行動が国王に対する挑戦と決めつけ弟を反逆罪で弾劾するために議会を招集した。貴族のほとんどは兄弟争いに巻き込まれるのを恐れ、議会を欠席したが、それでもエリックはヨハンに反逆罪で死刑判決を下した。この知らせに驚愕したヨハンは抗議したが、エリックは聞く耳を持たなかった。益々猜疑心を強めたエリックは、弟を捕まえるために大軍をアボに送り込んだ。

アボ城の塔からスウェーデン王軍が見え始めたのは1563年の夏の事だ。ヨハンは降参の呼びかけを拒否し籠城を決めた。ヨハンは王軍とまだ交渉するチャンスがあると思っていたのかもしれない。だが、城を包囲した国王軍は激しい砲撃を繰り返し、カタジーナの寝室にも大砲が命中する騒ぎとなった。城内には叫び声や悲鳴が響き渡り、数週間後には食料も底を尽き、城壁は崩れ落ち、城内に死傷者が溢れた。ヨハンとカタジーナの頼みの綱だったジグムント・アウグストはリヴォニアでイワン雷帝軍と激突し、南部ではタタール軍と交戦しており、フィンランドに援軍を送る余裕などなかった。絶体絶命の危機に直面したヨハンは瓦礫と埃にまみれたチャペルで跪き祈るカタジーナの姿を見て思った。これ以上の抵抗は無駄だ… エリックに死刑を宣告された自分の命がどうなるかはわからないが、この修羅場を生きて出ることができれば、カタジーナは生き延びることができるだろう。ヨハンはこの先の運命は神に託し、降伏することにした。

北方七年戦争

16世紀デンマーク地図。現在のスウェーデン南部を領土の一部とし、デンマークはバルト海と北海をつなぐ海峡を支配していた。

ヨハンとカタジーナが絶望の淵に立たされている頃、ストックホルムのエリックの宮廷では一大事が起きていた。デンマーク王フレデリック2世の使者が現れ、スウェーデンに宣戦布告したのだ。
普通の人にとって戦争などというものは忌まわしく実に迷惑な出来事であることは今も昔も変わらない。しかし、なぜか権力者の中には戦争をしたくてうずうずしている者がいるらしい。フレデリックが宣戦布告の理由として持ち出してきたのは、エリックがデンマークのシンボルである3頭のライオンを勝手に紋章に使ったとか、リヴォニアでデンマークの貿易を妨げたといった些細な事ばかりだった。要するに戦争を仕掛けるために適当に口実をかき集めたに過ぎなかった。喧嘩を売られたエリックも待ってましたとばかりに戦争に呑めり込んで行った。
フレデリックとエリックに似たもの同士だった。年はそれぞれ28歳と29歳と若く、父から王位を継いで間もなかった。両名とも早く偉業を成し遂げ自分の実力を世間に認めさせたいという強い願望を持っており、フレデリックはスウェーデンを占領しデンマークの統治下におくという野心を持ち、エリックはリヴォニアを手にいれ、当時デンマークが支配していたスウェーデン南部を奪取しバルト海交易に乗り出そうと企んでいた。二人とも自国の軍事力を過剰に評価し、戦は素早く自分の大勝利で終わると固く信じていた。

間もなく北欧史上最も血生臭く残酷な戦争と言われる北方七年戦争の幕が開いた。この戦は、やがてエリックの、そしてヨハンとカタジーナの運命を大きく左右することになる。



(1)アボ(Åbo):現在のトゥルク(Turku)。フィンランド南西部に位置する同国最古の都市。スウェーデン統治時代の行政・文化の中心地だった。

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