コペルニクスの生涯を探る5 盗賊と戦争 Olsztyn

 

(写真:16世紀初めのポーランド騎士の甲冑)


ヴァルミア盗賊団

 コペルニクスが教皇から依頼された暦改革プロジェクトに没頭している間、ヴァルミア司教区各地では盗賊の被害が相次いだ。人気のない街道で旅の商人が襲われ現金や商品が奪われた。盗賊に抵抗して怪我をしたり、命を落とす者もいた。しかも、盗賊の標的になったのは金目のものを持っている商人ばかりではなかった。フロムボルクとメルザク(1) という町をつなぐ街道で聖職者2名が盗賊に誘拐される事件もあった。幸い2人は身代金と引き換えに解放されたが、教会に仕える尊い聖職者までが強盗に狙われるなど世も末だと人々は震え上がった。

 ヴァルミアの町の役人が盗賊を追ってゆくと、奇妙な事に、盗賊は決まって騎士団国に逃げ込んだ。盗賊をひっ捕まえて刑に処そうとすると、今度は、騎士団国の住民だという理由で騎士団長が釈放するよう要求し、刑を執行することもままならなかった。
 盗賊の悪事はエスカレートし、1517年の夏頃には馬に乗った大強盗団が大っぴらに町や村を襲撃するようになった。ある時は百騎の馬に乗った大強盗団がやってきて50箇所もの小麦倉庫や馬屋に放火、道中の村や貴族の館にも火を放ち、後には無惨な焼け野原が残った。

写真:ドイツ騎士団長アルブレヒト・ホーレンツォレルン
 盗賊を背後で操っていたのは、ドイツ騎士団長アルブレヒト・ホーレンツォレルン だった。アルブレヒトは、ブランデンブルグ公を父にポーランド王の姉を母に持つ高貴な生まれで、1511年に20歳の若さで騎士団長に就任した。ポーランド王家の血縁だったにもかかわらず、ポーランドに敵対心を燃やし、13年戦争で騎士団が失った領土を取り返すことを夢見ていた。
 当時ポーランドは、モスクワ公国と戦争中で、国王ジグムント1世にはヴァルミアに兵力を回すだけの余裕がなかった。しかも騎士団に一貫して毅然とした態度をとっていたヴァセンローデ司教は1512年に亡くなり、新たに司教の座についたファビアン・ルジャンスキ は騎士団の顔色を伺う臆病者だった。司教区を思いっきり揺さぶれば、怖気付いた司教が自分に泣きついてくるに違いないとアルブレヒトは踏んでいた。
 アルブレヒトは更にヴァルミアに贋金を流通させ経済を混乱させた。そればかりか、司教区南部の町オルシュティン(2) に支配人として赴任した聖職者が騎士団の脅しにもびくともしない頑固者だと聞くと、この人物を辞めさせろと司教に圧力をかけた。いくら臆病でもこんな無茶苦茶な要求に司教が応じるはずもなかったのだが、アルブレヒトに睨まれたオルシュティン新支配人とは他でもないニコラス・コペルニクスだった。


写真:オルシュティン城の中庭。朝から支配人に面会を求める人々が集まった。

オルシュティン支配人

 暦改革調査を終えたコペルニクスは、1516年11月支配人としてオルシュティンに赴任した。支配人とは司教区の代表としてオルシュティンからメルザクにかけての地区を統括管理する最高責任者だ。頑丈な城へきと堀に守られたオルシュティン城に住み、多くの役人を従えていた。管轄下には200余の農村があり、入植者の受け入れや土地の割り当て、地区内の徴税や裁判など、支配人の仕事は多岐に渡っていた。
 治安の悪化はコペルニクスにとっても頭の痛い問題だった。入植者が盗賊を怖がりヴァルミアに寄り付かなくなれば税収減になる。それに、市場では贋金が出回り混乱が起きていた。コペルニクスは早速、贋金調査を行い、その結果をコインに関する論文 にまとめた。コペルニクスはその中で金融改革を実施するよう唱え、経済金融の専門家としても注目を集めることになった。
 朝から何人もの来訪者に会い、地区内の視察を行い、役人に指示を与え、評議会や司教との間で頻繁に手紙のやり取りをし、贋金に関する本をまとめ… コペルニクスの日程はぎっしり詰まっていた。だが、いくら忙しくても天体観測を中断することはなかった。
 とは言え、さすがに盗賊が出る物騒なご時世に支配人が夜な夜な城を抜け出し、真っ暗闇の中で天体観測… というわけにはゆかなかった。そこで城の一番高い塔の上にフロンボルクから持参した機器を持ちこみ夜空の観測を行った。
写真:オルシュティン城の塔。現在は屋根があるが、コペルニクス時代には屋根はついていなかったそうだ。思う存分夜空の観察ができたはずだ。


写真:コペルニクスのオフィスの外壁の様子。右上に太陽観測表がある。表の下にオフィスへの入り口がある。



 それだけではない。日中にも太陽を観測した証拠がオルシュティン城にある。コペルニクスのオフィスだった部屋の外壁に何本かの並行した斜線が書かれた巨大な表の一部が残っている。コペルニクス自身がこの表が何のために作られたものなのか書き残しておらず、斜線の意味は長らく謎のままだった。20世紀になって漸くこの斜線が1517年1月25日から4月20日までの5日毎の太陽の動きを記した線である事が判った。

 コペルニクスはオルシュティンに来る前、2年間に渡り暦改革プロジェクトのために太陽の動きを追っていた。プロジェクトはすでに終了していたが、コペルニクスは丸3年分の観測資料を集めるため、3年目に当たる1517年の春に日中と夜の長さが同じ日を特定することにした。
 オルシュティン城内の説明によると、コペルニクスは廊下に鏡を設置し、その鏡に反射して壁に当たった太陽光の動きを記録したのだという。
 
 それにしても、忙しい支配人がどのように3ヶ月間も太陽の動きを追ったのだろうか?観測は5日毎に午後行われた。午前中に仕事を片付けたコペルニクスが、午後になると4−5メートルもある梯子に登って壁に映る太陽光の位置を記していった。太陽が動けば、当然太陽光も動く。召使いを急かして重たい梯子を移動させ、次々と太陽光の位置を記録した。因みに壁の表面はコペルニクスの注文で完璧に滑らかに仕立てられていたのだそうだ。
太陽観測表。オリジナルの半分ほどが現在まで残った。

 コペルニクスが描いた線は肉眼には直線に見えるが、中の1本を除き緩やかなカーブを描いているそうだ。直線が描かれた1517年3月11日は夜と日の長さが均等となる春分だった。観測資料は正しい暦を作るためにも役立ったが、コペルニクスが信じる地動説を裏付ける証拠としても重要だったのだ。

ドイツ騎士団戦争

 1520年新年、深い雪に覆われた道をブラニエヴォ(3) の町に向かう途中のファビアン・ルジャンスキ司教の行列の前に、ブラニエヴォから逃げてきたという住民が現れた。何と騎士団が攻めてきて町を占領し、町議会のメンバーは騎士団国に連れ去られてしまった、というのだ。司教は自分のお気に入りのブラニエヴォ城で新年を楽しもうとしていたのだが、それどころではない。恐れをなした司教は行列を置いて自分だけさっさと逃げ帰ってしまった。

ファビアン・ルジャンスキ司教
 リズバルク城に到着した司教は、自分の名代をブラニエヴォに送ってアルブレヒトと交渉させようと思い立った。相手は騎士団だから自分の代理が下手に動けば殺されてしまうかもしれない。そんな危険なミッションにファビアン司教が選んだのはヤン・スクルテティ という年配のベテラン聖職者と、外交経験が豊富で物怖じしないコペルニクスだった。

 フロムボルクの東に位置するブラニエヴォは、騎士団国の首都ケニヒスベルクまでわずか50キロ地点にある交通の要所だった。騎士団に襲われた時、ブラニエヴォの城門は開けっぱなしだった。いつ何時戦争が始まるかもわからない時に警備を怠ったと町長を責める人もいた。(余計な話だが、ブラニエヴォの町長はフィリップ・テシュネル という人物で、実は故ヴァセンローデ司教の隠し子だった。)

 司教の名代2人が雪に覆われたブラニエヴォ城に到着したのは1月4日のことだった。2人は、司教のお気に入りの椅子に腰掛けた人物の前に通された。小柄でピカピカに光る甲冑を身につけた黒髪のこの人物はとても小柄で、椅子にすっぽりはまりこんでいるかのようだった。早速、スクルテティとコペルニクスが、ポーランド王ジグムント1世が怒って軍隊を送り込んでくる前に退却しなさい、そのほうがあなたの身のためですよ、と説得し始めると、アルブレヒトは2人を馬鹿にしたような笑みを浮かべた。ブラニエヴォを難なく手に入れたアルブレヒトは自信満々だった。モスクワとの戦に気を取られているジグムントがヴァルミアに大軍など送ってくるはずがない、と高をくくっていたのだ。アルブレヒトはスクルテティとコペルニクスに身の安全を保証しブラニエヴォから立ち退かせた。アルブレヒトの次の目標は、フロムボルクだった。


ブラニエヴォ、17世紀の版画

 同月23日、騎士団軍がフロムボルクを襲った。城壁の上から戦況を観察していたコペルニクスの目に火に包まれるフロムボルクの町が映った。この日、城外にあった聖職者の家もことごとく焼け落ち、コペルニクスの家も灰になってしまった。勢いに乗った騎士団軍は城壁直前まで迫ったが、幸い頑強な城壁は持ち堪えた。
 ポーランド軍がヴァルミア各地に進軍し、騎士団国への攻撃を始め、戦がヴァルミア全土に拡大するのは避けられなかった。
 騎士団軍がフロムボルクから退却すると、コペルニクスは直ちにオルシュティンに向かった。司教区南部の要所オルシュティンが騎士団の攻撃を受けるのは時間の問題だった。それまでにオルシュティンの守備を固めなければならなかった。

コペルニクス時代のオルシュティン城。城壁と堀に守られていた。


オルシュティン籠城、英雄伝説誕生

 オルシュティン城はヴァルミア司教区の中で最も強固な城として知られていた。前線から遠いということもあり、ヴァルミアの財宝や宝物が運び込まれ、他の町から聖職者が逃げ込んできた。
 騎士団が南部に進軍するにつれ、聖職者の多くはもっと安全なグダンスクやエルブロングに逃げていったが、コペルニクスはオルシュティンに止まった。
 コペルニクスは籠城に備え、武器や食料を補充し、ポーランド王ジグムント1世に援軍を要請した。生憎コペルニクスがジグムントに宛てて書いた手紙は敵の手に落ちてしまい、ジグムントの元には届かなかった。だが、オルシュティンの戦略的重要さはポーランド軍も良くわかっていた。間も無く援軍が到着し、城の防衛にポーランド軍に属するチェコ歩兵100名が加わり、ポーランド騎兵700騎がオルシュティン周辺に集結した。籠城の準備が万端整い、後は、じっと敵が来るのを待つだけだった。

コペルニクスがジグムント1世に宛てた援軍を要請した手紙


 1521年1月16日、城と町を明け渡せというアルブレヒトからの最後通牒がコペルニクスの元に届けられた。コペルニクスとオルシュティンを守る軍の指揮官はこれを無視した。
 1521年1月26日、アルブレヒトの先発隊100名ほどがオルシュティンの町を攻撃した。城壁のあたりでポーランド騎兵と揉み合い、城内への侵入に失敗し、この日は退却していった。
 オルシュティン城内では総攻撃に備えて緊張した日が続いた。だが、アルブレヒト軍はオルシュティンを迂回し、次の目標に向かって進軍していった。オルシュティン城の防備状況を知ったアルブレヒトが、城を攻撃しても勝ち目がないと判断したのだ。
 完璧な籠城準備がオルシュティン城を救った。コペルニクスはオルシュティンの救世主、英雄と讃えられる事になった。後年になって勇敢なコペルニクスが軍隊を指揮してドイツ騎士団を負かした…という伝説も生まれたのだが、コペルニクスが戦闘に関わったという史実はない。

 稀代の天文学者は、オルシュティン城籠城中も、城の一番高い塔の上からじっと木星の観測を行っていた。真っ暗な空に輝く星に照らされたコペルニクスは、地上の人間の紛争などとは比べ物にならない、この世を大きく揺さぶりひっくり返す大発見と孤独に向かい合っていたのだ。

(1)メルザク Melzak、ドイツ語:Mehlsack、現在はPieniężno
(2)オルシュティン Olsztyn、 ドイツ語:Allenstein
(3)ブラニエヴォ Braniewo、ドイツ語:Braunsberg

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