コペルニクスの生涯を探る4  フロムボルクの手作り天体観測所 Frombork, POLAND


(写真:2019年夏のフロムボルク大聖堂。コペルニクス生誕500周年に向けて大改修工事中だった。)

 2019年の夏、コペルニクスが半生を過ごし、地動説を唱えた「De revolutionibus orbium coelestium」(天球の回転)を執筆した町、フロムボルクを訪ねた。

 フロムボルクはポーランドの北東の端にある、ヴィスワ湾と呼ばれるラグーンに面した田舎町だ。この町は国境の町でもあり、ここから20キロほど先にロシア連邦の飛地カリーニングラード州がある。カリーニングラード州の州都カリーニングラードは、かつてケーニヒスベルクと呼ばれ、コペルニクス時代にはドイツ騎士団国の首都があった。

 フロムボルクのランドマークは何と言ってもヴィスワ湾を一望に臨む丘の上に聳えるゴシック様式の大聖堂だ。田舎町には不釣り合いと言ってもいいほどの荘厳な大聖堂で、その歴史は13世紀に遡る。14世紀にゴシック様式に改築された時には中欧でも最大規模の教会の一つだったそうだ。

大聖堂から見えるヴィスワ湾。右に行けば間も無くロシア領だ。

 静かで穏やかな外見とは裏腹に、この地の歴史は波乱に満ちている。昔から繰り返し戦乱に巻き込まれ、町は何度も焼き払われている。強固な城へきに囲まれた大聖堂も1626年にスェーデン王グスタフ・アドルフ軍の手に落ち、宝物や蔵書(この中にはコペルニクスの蔵書もあった)、大聖堂の内装やパイプオルガンまで持ち去られ、内部はすっかり廃墟になってしまった。

 その後大聖堂は修復されたが、18世紀後半に第1次ポーランド分割によりヴァルミアがプロイセン王国領になると司教区は廃止され、大聖堂に仕える聖職者もいなくなった。19世紀末期になり、痛みが激しい大聖堂の大改修工事が行われたが、今度は第2次大戦末期にソ連軍が侵攻し、大聖堂は軍の馬屋として使われ荒らされた。

17世紀のフロムボルクの様子を描いた版画。
フロムボルクFromborkはドイツ語ではFrauenburgだ

 戦後ヴァルミアは再びポーランド領となり、大聖堂の復興工事が行われた。我々が訪れた時は、丁度2023年のコペルニクス生誕500周年に向けて大掛かりな改修工事が行われていた。

 大聖堂内部にもところどころ足場が立っていたが、コペルニクスの肖像や、近年の調査で見つかったコペルニクスの埋葬場所などがあり、沢山の見学者が訪れていた。

大聖堂の内部

 コペルニクスが、リズバルク・ヴァルミンスキの叔父の城を去り、フロムボルクに定住したのは1510年のことだ。

 プリンス司教になる道を捨てる決心をしたコペルニクスだったが、政治の世界から離れることはできなかった。フロムボルク大聖堂の16名の聖職者からなる評議会にとって、司教秘書を長らく務めたコペルニクスは貴重な人材だった。特にドイツ騎士団との関係が悪化する中、コペルニクスの外交経験が役立つはずだった。1510年11月、コペルニクスは評議会の筆頭大臣(1)に任命された。

 コペルニクスの毎日は、筆頭大臣としての仕事に加え、大聖堂での務めや医者としての責務も重なり何かと忙しかった。だが、しばしば会合や議会に出かけなければならなかった不規則なリズバルク・ヴァルミンスキでの生活とは違って、フロムボルクでの生活は規則的だった。夕方になれば自宅に戻り、夜には庭に作った自前の天体観測所で好きなだけ夜空を観測する事ができた。

コペルニクス(ポーランド語ではMikołaj Kopernikミコワイ・コペルニク)

 コペルニクスの家は大聖堂の城壁の外にあった。当時は治安が悪く、騎士団との戦がいつ始まるかも知れず、危険を伴う城壁外の家は人気がなかった。だが、コペルニクスには理想的な「空」が必要だった。城壁内の家からは大聖堂に遮られ完璧な空が見られない。コペルニクスが見つけた家は、亡くなった聖職者が住んでいた家で暫く空き家になっていた。この家は丘の端にあり、天体観測にはもってこいのロケーションだった。だが、造りが立派だったので値段が高かった。コペルニクスには高価な家を買うだけの資金がなかったが、数年の分割払いということで話がまとまった。1512年に叔父ヴァセンローデ司教が急死し、遺産を支払いの一部に充てることができた。

コペルニクスが作らせた観測機器の複製1 Solar quadrant

 コペルニクスは、この家の菜園に自前の天体観測所を作ったことを「天球の回転」にも記している。まずは地ならしをさせ、水平線と完璧に平行する真っ平な表面を作らせた。次に中心に垂直にピンを立て、太陽の動きを記録し、子午線を描き、自前の「天体観測所」が出来上がった。次にプトレマイオスが設計した観測機器を作らせ、これらを使って本格的な天体観測を行った。

コペルニクスが作らせた観測機器の複製2 Armillary astrolabe

 ところで、クラウディオス・プトレマイオスは1-2世紀の古代ローマの学者だ。なんでよりによってそんな古くさい機器など作らせたのだろう?… 科学発展が当たり前の現代人には信じられない話だが、16世紀初頭の天文学者には他に頼れる機器がなかったのだ。

 コペルニクスが作らせた機器は木製だったので、湿気に弱く、直射日光に当てすぎても傷んでしまう。コペルニクスは大切な機器を家の中にしまい、必要な時だけ観測所に持って行った。

コペルニクスが作らせた観測機器の複製3 Triquentrum

 望遠鏡が世に出たのは1世紀も後のことだ。コペルニクスは肉眼でじっと夜空を観察した。星に魅せられたコペルニクスにとって、厳しい北風も、凍りつくような温度も気にならなかった。

 コペルニクスの観測結果は、クラクフやニュールンベルクなどで行われた観測結果と交換された。いつしかフロンボルクと言う土地にコペルニクスという秀でた天文学者がいることが学者達の間で知られるようになった。

書斎のコペルニクス Antoni Gramatykaによる19世紀の油絵

 1513年半ばコペルニクスは教皇パウロ3世から暦改革への協力を依頼された。当時の暦はユリウス暦だ。紀元前45年に当時の権力者ユリウス・シーザーが導入したものだったが、導入から1500年以上経っており、10日以上の誤差が生じるようになっていた。これでは復活祭の日付を決めるのにも支障が出てしまう。教皇は各地の名だたる天文学者らに、いかに暦を改めるべきか意見を求めたのだった。

 教皇からの協力依頼は重要事項だ。評議会の了解を得たコペルニクスは、しばらくの間、暦改革の報告書作りに専念することになった。

 フロンボルクの丘の上の観測所に陣取ったコペルニクスが、天体の動きの分析に追われている最中、地上ではヴァルミアを巻き込む醜い争いが始まろうとしていた。やがてこの争いがコペルニクスを再び外交の世界に連れ戻すことになるのだ。

(1) コペルニクスはCancellariusに任命された。Cancellariusは国の首相、宰相という意味だが、ここでは筆頭大臣と訳した。

リンク:コペルニクスの生涯を探る5 盗賊と戦争

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