コペルニクスの生涯を探る3  出世か夢か? Lidzbark Warmiński

 

(イラスト:ポーランド議会の様子を描いた16世紀の絵。中央王座の人物はポーランド王アレクサンデル1世ヤゲロンチク。コペルニクスの叔父ヴァセンローデ司教はアレクサンデルの顧問を務めていた。)

学生生活を終えたコペルニクスは人生の選択に直面した... 

 1503年、イタリアから帰国したニコラス・コペルニクスはヴァルミア司教、叔父ルカス・ヴァセンローデ (ポーランド語Łukasz Watzenrode、ドイツ語 Lukas Watrzenrode)を訪ねた。12年間に渡る大学教育を受ける事ができたのも、ヴァルミア 司教区の聖職者というベネフィキウム(聖職録、収入付きの聖職)を得ることができたのも、この叔父のおかげだった。イタリアで天文学に夢中になっていたニコラスが、帰国直前に教会法博士号を取得したのは叔父の恩に報いるためだった。教会法博士にこだわっていた叔父はさぞかし満足したことだろう。この学位こそ、将来の司教に相応しかったのだ。

コペルニクスの叔父ルカス・ヴァセンローデ

 ヴァルミア司教は高位の聖職者であるだけではなく、直轄領を治める領主でもあった。「プリンス司教」と呼ばれたヴァルミア司教は、リズバルク・ヴァルミンスキ(Lidzbark Warmiński)という土地にある優雅な城に住み、○○公と呼ばれる小国の領主に並ぶ富と権力を持っていた。ヴァセンローデは自分が手に入れたプリンス司教の座を甥に継がせたい、と考えていたのだ。

現在のヴァルミア地方の様子。田園地帯が延々と続く。

 ヴァセンローデは、帰国したニコラスを自分の秘書役兼主治医に任命し、自分の傍に置いて「司教見習い」をさせる事にした。ニコラスはヴァルミア司教区の聖職者だったので、本来であればフロンボルク大聖堂に仕えなければならなかった。だが、プリンス司教の決定に反対する者などいるはずもない。ニコラスも恩人である叔父の意思に従うしかない。イタリアで好きなだけ天文学に熱中する学生生活を満喫していたニコラス・コペルニクスは、リズバルク・ヴァルミンスキの城住み込み、気難しい叔父と四六時中行動を共にする毎日を送る事になった。

19世紀に描かれたリズバルク・ヴァルミンスキドイツ語Heilsberg)

コペルニクス、ポーランド王の宮廷に出向く(注1)

 コペルニクスが、叔父ルカス・ヴァセンローデの秘書役兼主治医になった翌年、ポーランド王アレクサンデル1世が王領プロイセンを訪問した。ヴァセンローデは、コペルニクスや家臣らと共にトルンでアレクサンデルを出迎え、その後数ヶ月に渡りプロイセン各地を周遊する国王に付き添った。ヴァセンローデはアレクサンデルの信頼を得たのだろう。翌々年1月のポーランド王国議会に国王直々の招待を受けたばかりか、宮廷にも招かれた。

ヴィリニュス、ギェディミンの丘。かつてここにリトアニア大公の城があった。  

 1506年4月21日、ヴァルミア司教一行がリズバルク・ヴァルミンスキを出発し、ヴィリニュスに向かった 。ポーランド王であると同時にリトアニア大公でもあったアレクサンデルは、リトアニア大公国の首都ヴィリニュスで過ごすことが多かった。これはアレクサンデルの妃ヘレナがモスクワ大公国出身の正教徒であったためだ。

 カトリック教国の国王の妃が正教徒と言うのは極めて異例だったが、この結婚はヘレナの父モスクワ大公イワン3世によるリトアニア侵略を止めるための取引として成立したものだった。ヘレナは政治の取引道具として輿入れしてきたのだが、アレクサンデルは気が優しく美しいヘレナを大切にした。だが、宗教が重要だったこの時代に、いくら王妃とはいえ正教徒がクラクフの王宮に住む事は考えられなかった。一方でリトアニア大公国は、公にはカトリック教国だったが、実態は多くの正教徒やタタール人などのイスラム教徒も住む多宗教国だった。ヴィリニュスの城であれば、ヘレナが住むにも差し障りはなかった。

アレクサンデル1世

 モスクワとの戦争に一旦切りをつけたアレクサンデルには、別の懸念事項があった。ドイツ騎士団が13年戦争でポーランドに敗れ、ドイツ騎士団国がポーランドの属国となった経緯は以前紹介した通りなのだが、そのドイツ騎士団が再びポーランドに反旗を翻そうな気配を示していたのだ。もし騎士団国と戦になれば、騎士団国に隣接するヴァルミア司教区は戦場になるだろう。アレクサンデルがヴァセンローデを宮廷に呼んだのはこの問題につき話し合うためだった。

第36代ドイツ騎士団長フレデリッヒ・フォン・ウェティン(Friederich von Wettin)

 ヴァセンローデ一行はヴィリニュスに3週間ほど滞在した。日頃から騎士団に批判的なヴァセンローデの宮廷訪問は騎士団の関心を引いた。騎士団長フレデリッヒ・フォン・ウェティン は、帰途についたヴァセンローデに使いを送りケニヒスベルグの騎士団城に招待した。記録によるとケニヒスベルグに立ち寄った司教を騎士団長は「敬意を持って迎え、一行を豪勢にもてなした」そうだが、ポーランド側の動きを探ろうとする騎士団長と、年季の入った政治家ヴァセンローデの間でさぞかし面白いやりとりがあった事だろう。

ニコラス・コペルニクスの肖像画(16世紀の銅版)

 コペルニクスは1503年に帰国して以来、議会、国王謁見、外交、司教区運営…と、司教の傍で多忙な日々を過ごしていた。国の運命をかけた重要な仕事といえばその通りなのだが、コペルニクスには物足りなかった。

コペルニクスは、自由な時間があるとイタリア時代から持っていた自分の考えをまとめ始めた。古代から人は太陽が地球の周りを回っていると信じているが、これは正しいのだろうか?天空の観測から地球が太陽の周りを回っていると結論づけるべきではないか ?コペルニクスはナヴァラ先生とひたすら天空を観察した日々が懐かしかった。せめて毎夜、天体観測ができれば、地動説を証明することができるかもしれない… 

この頃に描きまとめられた原稿は、後年「コメンタリオス」(Comentariolus)と
題された小本にまとめられた。

 1508年の12月、コペルニクスに新たに2つのベネフィキウム(聖職録、収入付きの聖職)を与えると言う教皇ユリウス2世の書簡が到着した。これも勿論、叔父が教皇に働きかけたお陰だった。これでニコラス・コペルニクスはヴァルミア司教の座を狙うライバルにグッと差をつけた。コペルニクスの前には誰もが羨む輝かしい将来が待っていた。


注1:コペルニクスがヴァセンローデの宮廷訪問に同行したと言う記録は残っていないが、この時期のコペルニクスがヴァセンローデに随時付き添っていた;長旅に主治医は不可欠;アレクサンデルとの会見はヴァルミア司教区の将来について話し合いためだった事から歴史家の間ではコペルニクスが同行したと言うのが定説になっている。


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