コペルニクスの生涯を探る7 恋するコペルニクス Frombork, POLAND
数十年の渡り蓄積した天体観測記録に基づき自説地動説の証明に至ったコペルニクスだったが、世の常識を覆す自説を世に出すだけの勇気はなかった。すっかり落ち込んでしまった58歳のコペルニクスをどん底から救ったのは...
マウリツィ・フェルベル司教 Wikipedia, Public Domain |
教会に仕える聖職者は生涯独身を通さなければならない。とは言え、これは建前であって、コペルニクスの同時代の聖職者が完全に女性を退けていたわけではなかった。例えば、かのアレキサンダー6世(2) のように、事実上の妻との間にチェザーレ・ボルジアやルクレチア・ボルジアといった有名な子供達を持った教皇もいた。コペルニクスの叔父、故ヴァセンローデ司教にも隠し子がいたのは公然の秘密だし、聖職者が女性の使用人と恋愛関係になることもあった。この時代の教会は聖職者の恋愛に寛容だったとも言えるのだが、カトリック教会の堕落を批判するプロテスタントの声が増す中、何もしないで放っておくわけにもゆかなかった。そこでフェルベル司教はコペルニクスにやんわりと注意を促す手紙を出すことにした。
それにしても、コペルニクスに何が起きたのだろうか?
フロムボルク、コペルニクス博物館に展示されていた昔の家具 コペルニクスの書斎はこんな感じたったのだろう。 |
コペルニクスが「転回について」の原稿を終えた頃、ある女性がコペルニクスの家を訪ねてきた。この人はアナ・シリングという女性で、1年ほど前までコペルニクスの家で使用人を取りまとめる女中頭を務めていた。アナはフロムボルクのシリングという商人と結婚するために退職したのだが、夫を捨ててコペルニクスの元に舞い戻って来てしまったのだ。
星の観測と原稿書きに夢中になっていたコペルニクスは気が付かなかったのかもしれないが、アナは前からコペルニクスのことが好きだったに違いない。思いもよらない事の成り行きにコペルニクスは戸惑ったかもしれない。だが、間も無く二人の間にロマンスが芽生え、コペルニクスの人生が「大回転」してしまったのだ。
それまで四六時中仏頂面をしていたコペルニクス博士が、突然やけに明るくなって鼻歌でも歌っていれば、周りの人が気づかないはずがない。早速おせっかいな人物がフェルベル司教に告げ口したのだろう。コペルニクスが晩年に作らせた星占い この星占いが存在するお陰でコペルニクスの生年月日がわかっている。 恋の行方でも占ってもらったのだろうか? |
自分も商家出身のコペルニクスにとって、アナはトルンの実家や姉妹を思い出させる存在だったかもしれない。
この時アナが何歳だったのかもわからないが、当時アナが結婚適齢期だったと考えれば、アナはコペルニクスより相当若かったはずだ。だが、大きな年の違いなど気にならないほど二人は気が合ったのだろう。コペルニクスはアナと過ごす日々の中に新たな人生を見つけたの違いない。
コペルニクス時代のキッチン(トルンのコペルニクス博物館) |
コペルニクスは司教の注意など気にもかけずアナとの幸せな毎日を過ごしていた。
一方、健康が優れないフェルベル司教は主治医のコペルニクスをリズバルクの城に度々呼び寄せたが、特にアナの件でコペルニクスにとやかく言うことはなかった。そして年月が経ち、1537年にコペルニクスの事実婚に寛容だったフェルベル司教が亡くなった。
コペルニクスが書いた処方箋 |
翌年、ヤン・ダンティシェク という人物がヴァルミア司教に選ばれた。コペルニクスより12歳年下のダンティシェクは華やかなキャリアを積んだ人物で、宮廷人にして詩人、そして国王の使者として各国を渡り歩いた辣腕外交官でプレイボーイとしても知られていた。赴任した各地で愛人を作り、スペイン人の愛人との間に2人の子供もいた。だが、それがエリート中のエリートだったダンティシェクの教会組織での昇進の妨げになることはなかった。
ヤン・ダンティシェク司教 Wikipedia, Public Domain |
だが、そのダンティシェクにはフロムボルクの聖職者が愛人と住んでいる事が気に入らなかった。早速司教はコペルニクスに「女中を解雇せよ」という手紙を送りつけた。コペルニクスがぐずぐずしていると再度女中解雇を要求した。コペルニクスはまたも司教の要求をはぐらかそうとしたが、ダンティシェクはその手に乗るつもりはなかった。ダンティシェクは何としても女達(愛人と住んでいるのはコペルニクスだけではなかった)をフロムボルクから追い出し、自分の言うことを聞かない聖職者を懲らしめるつもりだった。
ダンティシェクが最初に標的にしたのはコペルニクスが親しくしていたアレクサンデル・スクルテティ(4) という聖職者だった。この人には公然と同居している妻と子供がいた。その上、この人は気が強く敵が多く、ややプロテスタントに傾倒していた事も問題視されていた。
ダンティシェクは宮廷を巻き込み、アレクサンデルをヴァルミアから追放しようと画策した。
ダンティシェクの攻撃の矛先がコペルニクスに向くのは時間の問題だった。コペルニクスはやがて自分に降りかかってくる危険を感じつつ、アナとの生活を頑なに続けていた。
そんなある日、コペルニクスを訪ねてフロムボルクにやってきた見ず知らずの若者がいた。
コペルニクスの家と題された19世紀の版画 A.Piliński作 |
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