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ミュシャの「クオ・ヴァディス」堺緞通を訪ねて 最終編

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  (写真:ミュシャ絵「クオ・ヴァディス」の中のペトロニウス習作(一部)。絵の注文主シャルルがモデルという説もあるが、ミュシャ自身とも言われている。)  堺のアルフォンス・ミュシャ館で観た油絵「クオ・ヴァディス」。この絵をミュシャに依頼したとされるシャルル・シェンキェヴィッチは、本当にノーベル賞作家ヘンリク・シェンキェヴィッチの甥だったのだろうか?この疑問を解き明かすうちに行き着いたのは、シャルルが1831年にポーランドからパリに亡命したカロル・シェンキェヴィッチの孫で、父は19世紀末に在東京フランス公使を務めたジョゼフ・アダム・シェンキェヴィッチだった、という結論だった。明らかにシャルルはノーベル賞作家の甥ではなかった。それでは、ヘンリクはシャルルにとって遠縁の「おじ」だったのか?  ポーランドのヘンリク・シェンキェヴィッチ家とパリのシェンキェヴィッチ家の関係を探ってみたのだが、両家の関係はよくわからなかった。シャルルを巡る探索はここでお終いにしようと思っていた時に、しばらく音沙汰がなかったオブレンゴレック(Oblęgorek)のヘンリク・シェンキェヴィッチ博物館から1枚の資料が送られてきた。  この資料はヘンリク・シェンキェヴィッチ書簡集第3巻3部中の「アルトゥル・シェンキェヴィッチArtur Sienkiewicz (1834-1896)」と題される1ページだった。アルトゥル・シェンキェヴィッチとは「もう一人のシェンキェヴィッチ」事カロル・シェンキェヴィッチの次男でパリで銀行家として成功し社会活動家でもあったヴワディスワフ・アルトゥル・シェンキェヴィッチの事だ。  この資料によると、アルトゥルはヘンリクと親交があったのだ。へンリクはパリに来るとアルトゥル宅に立ち寄り、アルトゥルの娘たちがワルシャワを訪れるとヘンリクが面倒を見るなど、家族ぐるみの付き合いがあったのだ。ヘンリクもパリのシェンキェヴィッチ兄弟もポーランド人パトリオットだったので、お互いに共通の話題も多かったはずだ。パリのアルトゥル宅のサロンには、1月蜂起に参加した兄ロベルトや、弟ジョセフ・アダム夫妻らも集まり、ヘンリクをもてなし、時には熱い議論も繰り広げられた事だろう。もしかしたら、少年だったシャルルもアルトゥル宅で「ヘンリクおじさん」に会った事があったのかもしれない。  しかし、この資料に...

ミュシャの「クオ・ヴァディス」堺絨毯を訪ねて 続編 - もう一人のシェンキェヴィッチ -  Paris

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  (写真:パリ、賑やかなシャンゼリゼ通り 2023年5月)  ミュシャに絵画「クオ・ヴァディス」を注文した人物シャルル・シェンキエヴィッチは、果たして本当にノーベル賞作家ヘンリク・シェンキェヴィッチの甥だったのだろうか?この疑問を解こうとポーランド、オブレンゴレック(Oblęgorek)の旧シェンキェヴィッチ邸にあるヘンリク・シェンキェヴィッチ博物館に問い合わせてから3週間たった。催促メールも出したのだが未だ音沙汰なしだ。返事を期待するのを諦め、以前から気になっていた「もう一人のシェンキェヴィッチ」を追ってみることにした。 ( 前回記事へのリンク: ミュシャの「クオ・ヴァディス」堺絨毯を訪ねて )   カロル・シェンキェヴィッチ(パブリック・ドメイン) 亡命者シェンキェヴィッチ  もう一人のシェンキェヴィッチは、カロル・シェンキェヴィッチ (1) という。この人は半生を亡命先のパリで過ごしている。この人に遭遇したのは「中欧の不死鳥 ポーランド不屈の1000年史」 (2) を執筆していた時だ。「革命のエチュード」と題した章で、1830年にポーランドで起きた11月蜂起とその顛末をフレデリック・ショパンの生涯に絡めて書いたのだが、この章の登場人物でポーランド政界の重鎮アダム・イェージー・チャルトリスキ公爵 (3) について調べている時にこの人が出てきたのだ。  カロル・シェンキエヴィッチ(以下カロル)は、チャルトリスキ公爵の側近で、詩人・作家・歴史家・翻訳家と多才な人だった。「クオ・ヴァディス」の作家ヘンリク・シェンキェビッチの血縁という説もあるが、詳しくは分からない。 ホテル・ランベール Hôtel Lambert (パブリック・ドメイン)  カロルは、蜂起中にロシア皇帝に命を狙われたチャルトリスキ公爵と共にフランスに亡命した。公爵はパリのサン・ルイ島にある館ホテル・ランベール (4) に居を構え、そのサロンには多くの亡命ポーランド人が集まった。その中にはフレデリック・ショパン や国民詩人アダム・ミツキェヴィッチらもいた。  蜂起敗北後のポーランド本国では、ロシア帝国によるポーランド文化抑圧が続いていた。そんな中、ホテル・ランベールはポーランド文化の中心地の役割を負うようになり、カロルはそこで貴重なポーランドの蔵書を収集したポーランド図書館の設...

ミュシャの「クオ・ヴァディス」堺緞通を訪ねて   Sakai, Japan

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  (写真:アルフォンス・ミュシャ (1) 作「クオ・ヴァディス」一部)  今年5月、日本に帰国中に堺に行ってきた。お目当ては堺アルフォンス・ミュシャ館で4月から展示されている堺緞通「クオ・ヴァディス」だ。  「クオ・ヴァディス (2)  」とは古代ローマの皇帝ネロ時代を舞台にしたポーランド人作家ヘンリク・シェンキェヴィッチ (3) の歴史小説だが、その中の一場面、エウニケという奴隷の少女が密かに恋する主人ペトロニウスの代理石像にキスしようとする情景をアール・ヌーヴォーの代表的画家ミュシャが油絵に描いた。この堺緞通は、ミュシャの油絵の絵柄をそのまま絨毯に織り上げたものだ。  小説「クオ・ヴァディス」は、1895-6年にワルシャワの新聞ガゼータ・ポルスカ (4) などに連載され話題になり、欧米で翻訳版が出ると忽ち大ベストセラーとなり、「クオ・ヴァディス」ブームを巻き起こした。ちなみに日本でも初の翻訳版が明治時代に出版された。 20世紀初頭に出版された日本語版クオ・ヴァディス  数年前、どこかで堺アルフォンス・ミュシャ館が小説「クオ・ヴァディス」の一幕を題材としたミュシャの油絵を堺緞通に織るためのクラウド・ファンディングをしているという記事を目にした。私にはポーランドに関係する記事にすぐ吸い寄せられてしまう習性があるのだが、それに加えて堺市にある大阪刑務所(!)に受け継がれる伝統工芸技術を使って「クオ・ヴァディス」を堺緞通に織り上げる…という奇抜な企画にも興味をそそられた。早速、僅かながら寄付をさせてもらったのだが、その堺緞通「クオ・ヴァディス」が完成しミュシャ館で公開されるというので堺に寄ることにしたのだ。 堺アルフォンス・ミュシャ館入り口  堺に到着後、早速ホテルからタクシーでミュシャ館に向かった。堺は安土桃山時代の南蛮貿易や千利休で有名だが、古墳群がある事でも知られている。タクシーの窓から見た町の様子は、ごく普通の日本の中型都市だが、街中に立ち並ぶ建物の後ろに古墳らしきこんもりとした森が見え隠れするのは堺ならでは風景だ。  「ミュシャ謎の絵画」特別展のポスター  「ここですよ」とタクシーの運転手に言われ高層ビルの前でタクシーを降りた。地上階の商業施設を通り抜けて2階にあるミュシャ館前に出ると特別展「ミュシャ謎の絵画」と書かれた「クオ・ヴァディス...

世界最大の金塊を掘り起こした2人の男の話  Hill End, NSW, Australia

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  ゴールドラッシュの町ヒル・エンド  19世紀後半のオーストラリアはゴールドラッシュの真最中だった。カリフォルニアに続きオーストリア東部でも金が出たと言うニュースは瞬く間に世界中に広がり、一攫千金を狙う男どもがゴールドフィールドに押し寄せたのだ。  金が出たのは内陸地だ。それまで移植民などが寄り付かなかった大陸内地に雨後のタケノコ如くにわか作りの町ができたが、金を掘り尽くしてしまうとそのほとんどは自然消滅した。  シドニーから北西約280キロ地点にあるヒル・エンドもそんな町の一つだ。かつて世界最大の金塊が見つかり、金鉱町として大いに栄えたが、今は町というほどの場所でもない。    シドニーの自宅を出て西に向かい、ブルー・マウンテンを超えて鉱山町バサストから北上する。この辺りまで来るとユーカリのブッシュの中の細道が続き、対向車もほとんどない。ところどころにコアラ表示があったところ見ると、コアラが時々出現するのだろう。 町に入る街道には立派な並木がある。  ヒル・エンドはその名の通り、坂の上の行き止まりにある。ヒル・エンドに到着するとこの辺りでは珍しい立派な並木道に迎えられる。ベイヤース通りと名付けられた青々と生い茂った並木道を通り過ぎたところに宿の看板が見えた。 ヒル・エンドのロイヤル・ホテル  1872年創業のロイヤル・ホテルはヒル・エンドに残る数少ない建物の一つだ。名前こそ優雅だが要は古いパブだ。地上階のパブで鍵を受け取り2階の部屋に行った。ベッドとテーブルがあるだけの簡素な部屋で、歩くと床がギシギシと音を立てる。バス・トイレは共有だが、他には泊まり客などいないようで静かだった。 閑散としたヒル・エンド  ヒル・エンドは19世紀の最盛期には人口8千人ほどで、町には5つの銀行、8つの教会、パブは26軒もあったというが、今はほとんど何も残っていない。だが、空き地には昔そこにあった家や商店の写真が展示されている。写真を覗くと住民らしき人達の姿もあり、昔はこんな感じの所だったのかと想像できる。  この記録写真を撮ったのはヘンリー・メルリン (1)  という写真家だ。英国生まれのメルリンは1848年に18歳でオーストラリアに移住し、人形芝居や劇場の興行師や俳優として各地を渡り歩いていたが、写真家に転向、町から町を渡り歩き、一軒一軒の写真を撮って希望者にプ...

マリア・クレメンティーナの嫁入り4(最終回) マイ・ボニー Rome ITALY & SCOTLAND

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  (写真:マリア・クレメンティーナ 国立スコットランド美術館蔵 CC by NC)  ジェームスとマリア・クレメンティーナの夫婦喧嘩は間も無く教皇の耳にも入った。1724年に即位した教皇ベネディクト13世は、ステュアート王朝復興に積極的で自ら次男の洗礼を行った人物だった。ジェームスは教皇が修道院に引っ越してしまったマリア・クレメンティーナを説得してくれるだろうと期待したが、教皇は全面的にマリア・クレメンティーナの言い分を支持した。中でもプロテスタントのジェームス・マレーにチャールズ・エドワードの養育を任せたのは間違えだ、とジェームスに警告した。ジェームスはそれでも頑固に自分の決定を変えようとしないので、教皇はジェームスに支払っていた補助金を減らし、減らした分をマリア・クレメンティーナの手当てに付け足すと言い出した。そればかりか、スペイン王フィリップ5世と王妃 もマリア・クレメンティーナの言うことが尤もだとジェームスに書簡を送った。ローマでは「お気に入り」がすべて悪の根源だという噂が広がった。マリア・クレメンティーナを応援する「フランス派」や本国のメンバーの声も大きくなった。さすがのジェームスも「お気に入り」をこのままにしておくことは出来なかった。ジェームスはヘイ夫妻をローマの宮廷から追い出し、マリア・クレメンティーナには王妃に相応しい宮廷を持たせることに同意した。マリア・クレメンティーナは宿敵マレーもローマから追い出すよう求めたが、これ以上ジェームから妥協を求めるのは良くないというスペイン王妃の忠告を受け入れる事にした。ジェームスと和解が成立するまで、早くも2年が経っていた。  マリア・クレメンティーナが宮廷に戻る矢先の1527年6月、英国王ジョージ1世が亡くなった。王位獲得のチャンスが来たとジェームスは英国に渡るため教皇領アヴィニヨンに向かった。しかし、ジェームスには国内外の支援を集めることができなかった。英国ではジョージ1世の息子ジョージ2世が滞りなく英国王に即位し、ジェームスのチャンスはまたしても消えた。 18世紀のアビニョン Public Domain  スペイン王フィリップ5世はジェームスに当てた書簡の中に、ジェームスがマリア・クレメンティーナをきちんと尊重してきたのか反省すべきだ、と書かれていた。スペイン王妃は、ジェームスが役立たずの「お気に入...