コペルニクスの墓 Frombork, POLAND


混乱の中で在処がわからなくなったコペルニクスの墓。ナポレオンも試みたコペルニクスの墓探しは21世紀まで続いた…

(写真:コペルニクス像とフロムボルク大聖堂。2019年。2023年のコペルニクス生誕550年に向けて修復工事が進められていた。) 
 地動説で知られるポーランドの天文学者ニコラス・コペルニクスは1543年にフロムボルクで70歳の生涯を閉じた。遺体は生前聖職者として仕えたフロムボルクの大聖堂の地下に埋葬された。
 ヴィスワ湾と呼ばれるラグーンを見下ろす丘に立つ大聖堂の正式名は「フロンボルク聖母被昇天とセント・アンドリュー大聖堂」と言う。13世紀建立の由緒あるこの教会はかつてヴァルミア教会区の大聖堂として栄えた。現在まで残るゴシック様式の建物の起源は14世紀に遡る。頑強な中世の城壁に囲まれた様子から想像できるように、フロムボルクはその長い歴史の中で幾度も戦火を乗り越えてきた。だが、中世には不落を誇ったこの大聖堂も1626年に北欧の獅子と呼ばれたスェーデン王グスタフ・アドルフ(1) のスェーデン軍の手に落ちた。
スェーデン王グスタフ2世アドルフ(Wikipedia パブリックドメイン)

 略奪目的でフロムボルクを襲ったスェーデン軍は、大聖堂に押し入り宝物や金目のものは勿論、大聖堂のパイプオルガンや装飾なども剥がしとり根こそぎ持ち去った。長年に渡り収集された貴重な蔵書もごっそり盗まれ、コペルニクスが生涯かけて集めた文献も奪われた。幸い、ポーランド王国きっての軍人コニェツポルスキ(2) の活躍で、スェーデン軍は追い返されたのだが、廃墟と化した大聖堂の修復には21年という歳月がかかった。

 だが、18世紀後半になると「ポーランド分割」という戦争被害を遥かに超える前例のない試練に襲われた。ポーランド分割とは、ポーランド王国の隣国ロシア、オーストリア、プロイセンの3国が結託し、ポーランドの国土を3度に渡り奪い取り、遂に1795の第3次ポーランド分割の結果、ポーランドという国そのものが消滅してしまったという出来事だ。国を失ったポーランド人は、ポーランドが再び独立する1918年まで1世紀以上に渡り、辛酸の目に合う羽目になったのだが、フロムボルクがあるポーランド北部一帯は1772年の第1次ポーランド分割でプロイセン王国に併合されてしまった。
第1次ポーランド分割:左からロシアのエカテリーナ女帝、オーストリアのジョゼフ2世、プロイセンのフレデリック大王がポーランドを取り合っている様子を描いたアレゴリー(Wikipedia パブリックドメイン)


 第1次分割当時のヴァルミア司教区の司教イグナッツィー・クラシツキ(3) はポーランドの名門貴族出身で、ポーランド王ともプロイセン王とも懇意だった。クラシツキは第1次ポーランド分割後にプロイセン王に忠誠を誓い、特権階級としての生涯を全うしたが、「籠の中の小鳥」と題したこんな寓話を残している。

「どうして泣いているの?自然の中で生きるより、籠の中の方がよっぽど楽なのに。」と若いマヒワが年寄りのマヒワに聞いた。
「籠の中で生まれたお前にはわからなくても仕方ない。かつての私は自由だった。それなのに今は籠の中だ。だから泣いているのだ。」と年寄りのマヒワは答えた。

 いくら贅沢な暮らしをしていても「自分の国を奪われた=自由を失った」自分は不幸せだと、クラシツキは言いたかったのだろう。

墓探し

大聖堂内部。左右に聖職者が仕えた16の聖壇がある。

 この間、コペルニクスは地下で静かに眠っていたのだが、いつの間にか埋葬場所がわからなくなってしまった コペルニクスのような有名人の墓は人々の興味を引いた。フランス皇帝ナポレオン1世(4) も墓探しを試みた一人だった。
 1772年にポーランド北部一帯はプロイセン王国に分割されたが、19世紀初めにプロイセン王フレデリック・ウイリアム3世(5)がナポレオンに戦争を仕掛け大敗し、プロイセンのほとんどをナポレオンに占領されてしまった。
1806年に起きたイェナの戦い。中央馬上の人物がナポレオン(Wikipedia パブリックドメイン)




 勝ち戦で勢いに乗り、プロイセン(北部ポーランド)に陣を構えたナポレオンは、当時、マリア・ヴァレフスカ(6) というポーランド美女に夢中になっていた。プロイセンで戦を指揮する傍ら、司令本部兼宿舎にしていた城(7) にマリアをこっそり呼び寄せロマンスを楽しんでいた。ポーランドのパトリオットだったマリアの影響かどうかはわからないが、ナポレオンは占領したプロイセンにあるコペルニクスの墓を探させることにした。
マリア・ヴァレフスカ(Wikipedia パブリックドメイン)

 早速、皇帝の命令を受けたフランス人がフロムボルクにやってきたのだが、大聖堂の床下には何と身元不明の遺体が100体以上も眠っていた。これでは手がかりもない中で簡単にコペルニクスを見つける事などできなかった。そうこうしている内に、ナポレオンは1812年にロシアとの戦争に負け、プロイセンから退却した。

 プロイセン王国に戻ったフロムボルクは、1871年のドイツ統一後、ドイツ帝国東プロイセンの町となり、世紀が変わり1914年に第1次大戦が始まった。
 この戦争でポーランドを分割支配していたロシア、オーストリア、ドイツの3帝国が崩壊し、ポーランドは第1次大戦が終結した1918年11月11日に念願の国再建を果たした。戦後体制を決めるヴェルサイユ会議でポーランド代表は北部ポーランドを新生ポーランドに加えるべきだと主張したが、グダンスクに繋がる細長い土地(「ポーランド回廊」と呼ばれた)を除き、ほとんどがドイツ領として残った。
 ドイツ領フロムボルクでは、第2次大戦前夜ドイツ人学者によるコペルニクス墓調査が行われた。この時の調査は、16世紀にコペルニクスの墓標が飾られた辺りがコペルニクスの埋葬場所だ、という仮説に基づくものだったが、コペルニクスの棺らしきものは見つからなかった。
 1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻、第2次大戦が勃発した。ドイツ領だったフロムボルクは戦争当初、戦禍に遭うことはなかったが、ドイツの敗北色が濃くなった戦争末期になると状況は一転した。ソ連軍がドイツ東部の攻撃を開始し、ドイツ人住民の避難が始まった。凍りついたヴィスワ湾上を逃げる避難民の列をソ連の戦闘機が襲い、多くの死傷者が出た。フロムボルクの公園には避難中に多くの住民が亡くなったことを記したドイツ語とポーランド語の慰霊碑がひっそりと立っていた。
フロムボルクの慰霊碑

 第2次大戦が終わると、1772年の第1次ポーランド分割以来ドイツ領となっていた北部ポーランドはポーランドに戻った。ドイツ人住民が立ち退いた後には、戦後ソ連領となった東部ポーランドから追い出された住民がやってきた。フロムボルクの町は戦争末期に大きな被害を受けたが、大聖堂は奇跡的に助かった。だが、ソ連軍の馬屋として使われたため、大聖堂の中は荒れ、床下で永眠していた聖職者にはやかましくて臭かっただろうが、ソ連軍が去った大聖堂には静けさが戻り、やがてミサが行われるようになった。
フロムボルクの町(2019年)

 戦後はポーランド人学者による墓探しが続けられた。かつて大聖堂には一時に16名の聖職者が仕え、各々が大聖堂の左右にある16の聖壇の一つを所有していた。聖職者が亡くなると生前所有していた聖壇のすぐそばに埋葬するのが仕来りだった。つまり、コペルニクスが亡くなる前に所有していた聖壇を特定できれば、コペルニクスの埋葬場所が明らかになるはずだった。第2次大戦前夜のドイツ人学者による調査は、16世紀にコペルニクスの墓標が掛けられた場所のすぐ横にある7つ目の聖壇がコペルニクスの聖壇だった、という仮説に基づいていた。1973年のコペルニクス生誕500年祭を記念して立てられたコペルニクス像が7つ目の聖壇横に立っているのもこの仮説に基づいていた。
1973年に立てられたコペルニクス像

 だが、この仮説は正しかったのだろうか?事実、7つ目の聖壇付近にはコペルニクス時代の棺は見つからなかった。この仮説に疑問をもったポーランド人歴史学者イェジー・シコルスキ博士(8) は、大聖堂の古い記録を調べ上げ、1970年代にコペルニクスの聖壇が4つ目の聖壇だった事を証明した。それに加え、4つ目の聖壇を所有していた歴代の聖職者の中で70歳という高齢まで生きた人物はコペルニクスだけだったということもわかった。4つ目の聖壇説が正しいことを証明するためには、4つ目の聖壇付近を調査し、その中から70歳相当の老人の遺骨を見つけ、その遺骨がコペルニクスのものである事を証明しなければならなかった。だが、シコルスキ説を証明するためには21世紀の科学技術の到来を待たなければならなかった。

 シコルスキ博士の説に基づく調査は、2004年にフロムボルクのヤツェク・イェジェルスキ司教 (9)の主導で始まった。考古学者イェジー・ゴンソフスキ教授 (10)の指揮で大聖堂の床をスキャンする作業が行われ、翌年8月の調査で13体の遺骨が見つかり、その中からコペルニクスの死亡年齢七十歳にマッチする遺骨一体が確認された。
 この遺骨がコペルニクスのものである可能性を探るために、発掘された遺骨はワルシャワの警察本部中央犯罪研究所に送られ、顔再現作業が行われた。結果は、生前に描かれたコペルニクスの肖像画によく似た、頬骨がはった大きな顎の鍵鼻の細長い顔であることがわかった。しかし、人相が似ているというだけではこの遺骨がコペルニクスの物だという決め手にはならなかった。決定的証拠を掴むために遺骨の遺伝子検査も行われたのだが、コペルニクスには子孫もおらず、近親者の遺骨も見つからず、調査は座礁に乗り上げてしまった。
大聖堂見学チケットに印刷された頭蓋骨から再現された顔。

 だがそんな時、思いがけないニュースがもたらされた。スェーデンのウプサラ大学図書館蔵のコペルニクス蔵書の中から本人のものと見られる10本の髪の毛が発見されたというのだ。この本は17世紀に北欧の獅子グスタフ・アドルフの軍隊が盗んだもので、生前コペルニクスが頻繁に使用していた本だった。慎重に取り出された10本の髪の毛のうち2本から遺伝子の検出が成功した。この遺伝子を大聖堂の床下から掘り起こされた遺骨の遺伝子と比較すると見事一致した。この遺骨は間違えなくコペルニクスの物だったのだ。
 調査が終わった後、遺骨は新しい棺桶に収められ、再び床下の発見場所に戻された。床には一部棺が見えるようガラスがはめこまれ、横には立派な墓碑が立てられた。これなら2度と行方不明にはならないはずだ。
真新しい墓碑。その前に棺を覗けるようガラスがはめられている。

 見学者をかき分けて床にはめられたガラスの中を覗くと、棺の上に置かれた若き日のコペルニクスの肖像画が「何の御用ですか?」とでも言いたそうな表情でこちらを見ていた。
 コペルニクスは何百年もの間、外の騒ぎも知らずに、ずっとここで静かに眠っていたのだ。



(1) Gustav II Adolf スェーデン王(在位1611-1632)。従兄弟ポーランド王ジグムント3世と領土をめぐり争っていた。
(2) Stanisław Koniecpolski (1591-1646)
(3) Ignacy Krasicki (1735-1801) ヴァルミア教会区最後のプリンス司祭。文筆家としても知られている。
(4) Napoleon Bonaparte (1769-1821) フランス軍人、フランス皇帝。
(5) Frederick William III (ドイツ語:Friedrich Wilhelm III) (1770-1840)
(6) Maria Walewska (1786-1817) ポーランドの貴婦人。伯爵夫人。ナポレオンに見そめられ愛人となった。ナポレオンとの間に生まれた息子アレクサンデル(Alexandre Collonna-Walewski)はナポレオン3世時代のフランス外務大臣。
(7) Fickenstein Palace(ポーランド語Pałac w Kaieńcu)ナポレオンはここに1807年4月から6月にかけて滞在した。
(8) Dr Jerzy Sikorski (1935-) ポーランド人歴史学者
(9) Biskup dr Jacek Jezierski (1949-) ポーランド人司教
(10) Prof. Jerzy Gąssowski (1926-2021) ポーランド人考古学者

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