逃亡した王様の話 ポーランド クラクフ Kraków


(photo: 逃げるヘンリー・ヴァロア、Artur Grottger作, Public Domain)

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574年6月のある日の深夜、ポーランド王国首都クラコフ近郊の道を馬に乗って急ぐ2人の貴族の若者がいた。2人は影のように背後にそびえるヴァベル城の方角を時々振り返っては先を急いでいる。
 あたりがうっすらと明るくなりかけた頃、そのヴァヴェル城から、200名の駿馬に乗った騎士が2人の後を追いかけた。だが、追手の目に2人の姿が見えた時、すでに2人はヴィスワ川を渡り、対岸のシレジア公国にたどり着いていた。
 Serenissima Maiestas, cur fugis?” (陛下、どうしてお逃げになるんですか?)とラテン語で叫ぶ追手を尻目に「陛下」と呼ばれた若者は供を従え走り去った。

 こうしてヘンリー・ヴァロアのポーランド・リトアニア連合王国の統治は僅か118日で終った。現職の王様が国を捨てて逃亡したという例は歴史上もあまり例がない。

 この時ヘンリー・ヴァロアは22歳。フランス王ヘンリー2世とカテリーナ・デ・メディチの4男として誕生した。元々フランスのヴァロア家はポーランドと何の関係もないが、ポーランドの王朝ヤゲロー家が途絶え、ポーランドが国王を探していた。夫亡き後、長男、(次男は幼少時に亡くなった)、三男と順番にフランス王位につけた
カテリーナ・デ・メディチが、家でぶらぶらしていた(と言うのは私の勝手な想像だが)ヘンリーのために外交手腕を発揮してポーランド国王のポジションを手に入れた。

 カテリーナ・デ・メディチというと「セント・バーソロミューの虐殺」事件を思い浮かべる人も多いかもしれない。彼女と並ぶプロテスタント弾圧の黒幕といわれたヘンリーが国王として「赴任」したポーランドは、多民族、多宗教国家で、信教の自由を国是としていた。当然、ヘンリーが国王「職」に就くにあたっての「契約書」には、信教の自由を保障することが条件として入っていた。プロテスタント嫌いのヘンリーだったが、王様になるためには致し方ないと、この条件に合意した。
 しかし、条件はこれだけでは無かった。王朝には正当性や継続性が重要だ。ヤゲロー王朝との繋がりを作るために、ヤゲロー朝最後の国王だったジグムント2世の妹アナと結婚する約束になっていた。
戴冠式ドレスのアナ (Public Domain)

 だが、ヴァベル城でヘンリーの前に現れたアナはずっしりとした体格の50過ぎの大年増だった。お世辞にも魅力的とは言えず、アナとの結婚条件を満たすのは美形好きの若いヘンリーにはきつすぎた。
 なんだかんだとヘンリーを誘おうとするアナを何だかんだと理由をつけてはぐらかし、時間稼ぎ作戦に出たヘンリーだったが、問題はそれだけでは無かった。議会に出席してもポーランド語が分からないし、ラテン語のテンポにもついていけない。段々と、ポーランド宮廷の風習も、イタリア・スタイルの城の内装も家具も、何もかもが気に入らなくなってきた。

 そんな時、カテリーナ・デ・メディチから極秘の連絡が到着した。兄のチャールズ9世が突然亡くなったのだ。ヘンリーにフランス王になるチャンスが巡ってきた。こんな見ず知らずの国の王様など辞めて、一刻も早くフランスに帰って王位をゲットしよう!と夜中の逃避行となったのだ。

ヘンリー・ヴァロア (フランス語ではHenri III,  ポーランド後では Henryk Walezy)
フランス、ロワールバレーのシャトーAzay-le-Rideauで見つけたヘンリーの肖像画。
上にちゃっかり「フランス&ポーランド王」と書かれている。

 ポーランドはヘンリー「スカウト」のために大金を使ったのだが、逃げられたとあれば手の打ちようもなかった。落ち着いて考えるとヘンリーは最初から「雇用条件」に合わない「候補者」だったのかもしれない。貴族らは反省の上、新たな候補者探しを始めた。
 一方、フランスに戻ったヘンリーは、無事王位を手に入れ、前々から好きだった美しいロレーン公女ルイーズと結婚した。ポーランドとの縁は切ったが、ちゃっかり「ポーランド王」というタイトルだけは生涯「フランス王」と併記して使っていた。見かけだけでもタイトルは大きいほうが恰好よい。
 それから意外なところでヘンリーの外国生活の恩恵がフランス宮廷にもたらされた。ヘンリーはクラコフの王宮で初めて手にしたフォークなるものが気に入って、これをフランス宮廷に持ち込んだ。そしてバベル城にあったトイレのシステムをフランス王家の城にも導入した。
 やはり、苦労しても異文化体験をしただけの事はあったのだ。

ヘンリーの城アザ・レ・リドゥ






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